日記をやり直す手がかりが掴めたような気がしてきてから読書も調子がいい。しかしぐぐっと潜るように読んでようやくページから目を上げる時にはすでに脱水や眼精疲労による頭痛や虚脱感に見舞われるのでただ単に自律神経の乱れによる過集中なだけかもしれない。先日行った鍼灸で、鍼の置かれるたびに鈍くライブ会場で腹に響くドラムのような響き方で皮膚のほんの数ミリ下のところで針の先端よりもずっと広い範囲が揺さぶられるような感覚が楽しい。それで治療を終えた日はもう湯辺り手前のような心地よい虚脱感でぼんやりしているのだが、本を読んでふと中断したときに感じる満足のある疲れというのが鍼灸帰りのそれにかなり近いものになっている。
プルーストの『楽しみと日々』はどうも短くて面白くなく、けれども「侮恨、時々に色を変える夢想」という三〇の断片はちょっと面白く、けれどもこの面白さはそこにデッサンされるものが『失われた時を求めて』のどこかと響き合うようなものであって、僕はこれらの断片から透かし見るようにしてあの長編を思い出しているだけなような気もする。
今日の逆説は明日の偏見である。というのも、最も度しがたく不快な今日の偏見も、かつては新しく見え、流行がかよわい美しさを貸し与えた瞬間があったからだ。
プルースト『楽しみと日々』岩崎力訳(岩波文庫) p.211
たとえばこの一説なんかはいかにもエピグラフに使われそうで格好いい。だからこうして引用はするのだけれどプルーストを読むときに僕が感じていた喜びはこのように端的に言い表せることをあえて冗長な長さの中でより実在感のあるものというかよりじっさいに感覚できるものとして表すところにこそあったはずで、この短編や散文をまとめた小さな本では、スマートに簡潔に言うしかないから、それはそれでたしかに格好はいいのだけれどやっぱり長くて大きいことには敵わないというか、長くて大きいことは長くて大きくないと本当は表せない。
野心は栄光よりも人を酔わせる。欲望はすべてを花と咲かせ、所有はすべてをしおらせる。人生は、それを生きるより夢みるほうがいい。生きることが、やはり夢みることだとしても。(…)
同書 p.213
だからこれとかも僕は嬉々として引用はするけれども、ここにプルーストのエッセンスが凝縮されてるなんて言いたくない。プルーストはこういう断片をいくつも撚り合わせて、断片で指し示そうとしたものそれ自体をじっさいにこの場に実現しようとするように書いたからこそあれだけの長さになった。そこで重要なのは長さであって、このように一見了解しやすいように端正に言語化された断片ではやはりない。要するにどういうこと? ではなく、この長さがそれだけで意味とかテーマを凌駕するのだ、と言い切ること。
プルーストの断片の面白いところはこういう引用しやすいところにあったけれど、そうした断片は何度も意味を取り損ね数度にわたって読み返してようやく像を結ぶような風景描写を読む経験にこそ支えられていて、断片ですらここに引いた部分だけではたぶんただ格好いいだけだろう。
プルーストにつられるようにマルクスも手許にやってきた。久しぶりに読み始めるとやっぱり迫力がすごくてぐいぐい引き込まれる。『資本論』はG-W-G’などで連想される数式や図式を駆使した無味乾燥な構造の分析の書などではない。今読んでいる──そしてこの数ヶ月間読みあぐねていた──労働日の章なんかはずっと怒りが充満していて、いかに労働者が劣悪な環境下で酷い扱いを受けてきたかを具体的な事実の列挙で叩き込んでくる。一日に何時間働かされて、睡眠時間はこの程度で、それなのに賃金はこれっぽっちで、工場内はこんなにも劣悪で、子供たちはこれだけ成長を阻害され、大人たちもこうも無惨に早死にしていくのだというのを延々と書き連ねていく執念。あらゆる無惨な事実を、工場主の弁明や、監査人の告発文や、あらゆる立場からの議会での発言の記録を渉猟し、いちいち書き連ねていく。そうした記述に付き合ってきたからこそ次に引用する大洪水のくだりで読んでいるこちらも腹わたが煮え繰り返るような憤りを感じることになる。
(…)自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ![Après moi le déluge! ]これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである。肉体的および精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次のように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか? と。しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用されるのである。
マルクス『資本論(2) 第一巻第二分冊』岡崎次郎訳(国民文庫) p.77
ここで重要なのは最後の二つの文で、マルクスが──そしてここに関してはエンゲルスが──告発する労働者の生命を絞り尽くすような搾取は、個々の資本家たちの悪意によって引き起こされているのではなく、つまり明確な悪の大ボスがいるのではなく、資本主義というゲームの構造そのものが資本家たちを醜悪な搾取に駆り立てていくよう要請しているのだと、彼自身が明示していることである。僕が実際に『資本論』を読んでいていちばんびっくりしているのはここで、マルクスはとにかく資本家が悪いのだと扇動するデマゴーグでは決してなかった。マルクスにとっては資本家も労働者と同じように資本の奴隷なのだ。
僕はマルクスを読んでいると自分が社会化されていってしまって、日記が面白く書けないのではないかと危惧しているし、じっさいマルクスを日付の横に併記するようになってからはその危惧は感染症の蔓延も相待ってかなりの程度実現してしまっていたように思う。それでもだからこそ、もう一度マルクスを読み続け、そのうえで生活感覚も忘れないように書くというのがトライのしがいのあることのように思えた。マルクスを安易に社会化というか流通が容易な形に単純化することは、マルクス自身が過剰なまでに渉猟し記録していった膨大な具体的事例を読み飛ばすことに等しい。プルーストが長さによって初めて実現したものがあるように、マルクスもこの長さに付き合うことにしかないものがあるはずで、それがなにかはわからないが、とにかく長さそのものを読むようにして読んでいくこと。