2021.07.22(2-p.150)

弟にもらった文庫本を読んでいる。来月から始まる青木さんとの連続雑談の準備というほどでもないのだけど、気持ちや関心を70年代前後の状況にセットするためにもちょうどよさそうで、あらためて前の東京オリンピックからの相変わらずさとより悪化したものとを思う。過去を振り返って思うのは進歩というものの嘘というか、今起きていることの多くはずっと前から草の根的に準備してきたことだったり、いつまでも反復されるものだったりする。

「一億総化粧」(犬養道子)の狂乱については今ではほとんど忘れ去られてしまっている。あのオリンピックという祭りが生みだした「お祭り躁病」のなかで、ひとは過去も未来もないただ「現在」の熱気のなかにいた。すべてが「いま・ここに」の論理のなかで動いていた。したがって、祭りのあと=あとのまつり──時間の経過のなかで、もはや明確な記憶もない。ただでさえ、近年の日本社会の精神構造は躁病的なのである。木村敏は、「その日その日、皆と仲良くやって行ければ最高なのです」という患者の言葉のなかに躁病者の「現在の優位」という病理をみている(「時間と自己」)が、これは近年の日本人にとってかなり一般的な心性だといっていいかもしれない。

桜井哲夫『思想としての60年代』(ちくま学芸文庫)p.34-35

何より怖いのは30年近く前に書かれた本書で──さらに元となる木村敏に至っては40年──こうして指摘されている「現在の優位」という病理は、解消されるどころかいよいよひどくなってきているようにさえ思えることで、「その日その日、皆と仲良くやって行ければ最高なのです」という心性によって損なわれ続けていく皆と仲良くやって行く日々を想うとゲンナリしてしまう。

あらゆる関係者の過去の無思慮がサルベージされ断罪されている分、「現在の優位」は多少相対化されているとも言えるだろうかといえばそうでもなく、過去すらも断罪可能であるという現在の優位が強化されただけのように思える。為政者の失言は現在進行形で見逃され続け、芸能の場にだけ潔癖に適用される「正しさ」という運用には欺瞞しか感じられない。ようやく過去を遡って正常であろうという兆しが見えているわけではない。無思慮やひどい暴力を看過するどころか誘発するような社会構造を放置したままにわかりやすく目立つ個々人の過去にだけ責を負わせるというのは、むしろ異常な現在を強化することにしかならなかったりする。拾われているのは現在から過去になされるクレームであって、過去から現在に投げかけられた問いかけではない、ということが何よりムカつく。あとは個人の肉体を損壊するような個別具体的な犯罪行為と、作品内における雑で一方的な歴史の借用というのはまったく別個のものであり、特に後者について作品自体以上に雑な検討とも呼べない稚拙なやりとりだけで決着していることに底知れない嫌悪と不安を感じる。でもとりあえず「不快な思いをさせたから」という理路で謝罪文を出す人はみんなダメだと思ってるので、ここまでの全員とくに擁護したいとも思えない。それはそれで悲しい。

あの大規模な〈衛生〉作戦は、まさな日本全体からケガレをおとし、清めることで日本全体を外部世界に対して〈身内〉化するための運動だったのである。大貫恵美子は、卓抜な日本社会論である『日本人の病気観──象徴人類学的考察』のなかで、なぜ日本人は、外から帰ると手を洗い、うがいをするのか、と問いかけ、そこに「汚れは外にある」という日本人の文化的規範をみいだしている。 内部と清浄、外部と汚濁という象徴的図式ゆえに、オリンピックという儀式に至って日本全土が汚れをおとし、内部化=清浄化する必要が生じたのである。だが、ことはそれだけではない。清浄な内部は、つねに新たなエネルギーの供給によってのみ不浄と化すことをのがれるというメカニズムも持つ。

前近代日本社会では、村民が周期的に神々の肯定的力を引きよせる儀礼をとり行わなければ、村の生活それ自体が停滞するとされていた。その儀礼は内部の清浄さを高めるのみならず、外部をも統御するもので、儀礼によってはじめて、外部の力は破壊的作用の牙を抜かれ、創造、恩恵の力へと変容させられた。現代においても、この儀礼は衛生慣習に形をかえて残っている。身体、家などすべて「内」に属するものは常に繰り返し清められ、清浄で純粋であるべきとされる(大貫恵美子、前掲書)。

オリンピックとは、まさに「異人殺し」(この点については小松和彦『異人論』を参照せよ) の場、外部の汚れた「力」を内部の恩恵の力へと変容させる儀礼の場であったのだ。

同書 p.43-44

今回の不浄な異人は「過去」というわけだ。それも遡って安全圏から苛烈な暴力を浴びせかけられるような周縁の個人の過去に限られるのだからずいぶん中途半端だが。どんどんこの国のあり方に嫌気がさすな。これからの一ヶ月はずっと機嫌が悪いだろうと思うとそれもなんだか腹立たしい。

僕はとにかくほとんど考えることをしないままに考えた気にだけなって安易に規格化された反応しか返すことのできない「まじめさ」や「勤勉さ」が嫌いだ。どうせ碌にものを考えていないのだから、薄っぺらいポーズなどとらずにいい加減に生きて、てきとうにサボればいい。まじめでないやつがまじめであろうと見せかけようとするから、殴っていいということになった人だけを気持ちよく殴るというどうしようもない醜態を演じることになる。他人にまじめさを要請する前に、自身のまじめでなさを自覚して、まじめにやろうとすることを放棄することから始めてはいかがでしょう。いやべつに、誰に言っているわけでもないのですが。

江川の「手抜き」とは一体何を意味しているのか、と時々考えこんだことがあった。そのうちにボードリヤールの「記号の経済学批判』のなかの最終章の論文「交換価値における欲望の達成について」を翻訳していた時、注釈の一文を読んでハタと納得したのである。ボードリヤールはそこで、スポーツ選手の突然の気の委え、偶然のしくじりなども否認や反抗と同じ意味をもつと書いていた。

つまり、勝つために走りながら、各選手は競争的価値システムを再び活発にさせ、それを再生産するために働いており、その結果、個人的な満足(充足)を威信と〈交換〉しているわけだ。搾取は、労働力を売るレベルでもこのレベルでも同じことである。無意識に選手の気の萎えが狂わせるのは、この交換という偽造されたメカニズムなのである(拙訳)。

なるほど、と思った。江川は政治的闘争をこの威圧的な競争社会に対して試みていたのであったのか。 チームのためなどというのは、巧妙な搾取のイデオロギーなのであり、そうした搾取のメカニズムを支えていたものこそ武士的エートス(禁欲倫理)なのであった。そしてこうしたイデオロギー批判の体現者こそが、高校時代から「根性」や「チームのため」という言葉は嫌いだと公言してはばからなかった江川だったのである。 かくて、野球の世界でもワンテンポ遅れたかたちであるにせよ、かつての六〇年代末の政治的闘争の波が押しよせてきたのである。たとえば、江川の例の巨人入団の際に明らかになったことは、野球とは清く正しい武士的エートスの世界ではなく、政治的な支配秩序の世界であるということであった。そんなことはホンネの部分ではごく当たり前のことであったのだが、ひとは武士的エートスのタテマエ(イデオロギー)に拘束されているがために、口をそろえて江川をののしったものである。 江川はそれに対して答えなかった。なぜならば、彼こそはかかる政治的支配への反乱を志していた人間だったからである。(…)

同書 p.75-77
柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。