2021.07.27(2-p.150)

クーラーがリビングにしかないので夏場は布団もそこに敷くのだが、そこは奥さんの仕事場でもある。この数ヶ月、奥さんの朝は早い。だから早く起きなくてはいけないのだが、昨晩は台風の接近でなんだかめそめそした気分になってしまったり、いざ降り出したタイミングで目を覚ましてしまったり、ほとんど寝れた感じがなくて、今朝は二度寝三度寝を重ねるうちに奥さんの朝会が始まっていた。申し訳ない、と働く背中を眺めながらもう一回寝た。よく寝た。

朝ごはんは食べ損ねた。マリトッツォが食べたい。生クリームが食べれればなんでもいいのだけど。

一仕事終えた奥さんに、鏡見た方がいいよ、と言われた。やんわりと顔が悪いと言っているのだ。昼ごはんを作ってくれるというので顔をもう一度洗って髭を剃って化粧水などをしっかり染み込ませた。

『通天閣』と『書物としての新約聖書』のはしごは、『通天閣』のほうがぐいぐい進む形で進む。きょうは酒井の三章まで終える。田川の方は一章の五節まで。どちらもほとんど知らない世界を分厚い調査と記述で、ほんとうに面白い。丁寧な仕事はこちらも丁寧に読むことになる。読むときの一息が長いからこちらの肺活量も試される。かなりくたびれるので一日に二冊の合計で百ページくらいが限度で、息抜きが必要になる。だから息抜きに『思想としての60年代』を読むことにする。それにもくたびれると『ポップ・ミュージックを語る10の視点』で休憩。60年代とは若者が人口の半数近くを占めた時代であったのだ、ということを考える。ベビーブーマー世代への愛憎というのは、91年生まれの僕としてもまったく精算しきれていないのだよな、と思う。生年に『Nevermind』をリリースしたカート・コベインの体現したものの意味は、今こそ読み解けるというか今でもまだアクチュアルなのってどうなんだよというようなことを若林恵が「だえん問答」でも書いていたけれど、生活を破綻させるほどの思想への傾倒でもなく、目の前の生活だけにかまけて外部を見ない諦念でもなく、飾り気のない苛立ちでもって周囲へ訴えかけようとしていたあの態度こそがいままたしっくりくるような気もする。90年代を単純に自閉的で自らの暴力性に無頓着な時代としてだけ総括するのはちょっと惜しいというか、取りこぼすものもある気がしてならない。世の風潮がクソであったのは間違いないが、それは今だって同じだ。90年代よりもマシになっている状況もあれば、90年代のクソさの中だからこそ立ち上がった良き試行錯誤もあったはずだ。90年代の失敗した対抗をこそ掘り返したい。ちょっと頭を使いすぎた。ふらふらする。甘いものが食べたい。バナナジュースを作って飲んだら元気になった。

夜、奥さんとゼルダ。氷の矢を手に入れた! それからヒロアカが溜まっているので一緒に見る。テレビの前で準備していると奥さんが嬉しそうにこっちを見てくる。なんで?可愛いから?と訊くと

そうだよ、ルッキズムだよ。

そう言った。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。