2021.07.28(2-p.150)

ブライアン・イーノはいよいよ奔放で、伸ばした蔦をべつの蔦に絡ませるくらいになってきた。数日前から奥さんは剪定なりをちゃんとしたほうがいい、やり方を調べてみてはどうか、とやんわり提案をしていたが、僕は生返事をするばかりでぐずぐずと先延ばしにしていた。この一鉢で鬱蒼と茂っていくブライアンが頼もしくも誇らしいような気持ちがあったからだった。

それが今朝は奥さんが痺れを切らして調べてくれたらしきことをいろいろと教えてくれる。密集が過ぎると風通しが悪くなりカビたり病気になりやすいこと、新しい芽から古い葉までに栄養が行き渡らず全体によくない影響があること。それでじゃあ葉の元気のないところから間引くかという話になって、僕は鉢を掲げ持って奥さんに鋏を渡すと、わたしに鋏を託していいんだな、と奥さんが警告するが僕はそれには無頓着だった。奥さんは早速ここはもうだめだ、あ、これは根っこから折れてるね、とちゃきちゃきとことを進めていく。あんなに葉ぶりのよかった僕のお気に入りの蔦にまで鋏が入る。奥さんがあまりに手際よくごっそりと葉を落とし、落とした葉をあっさりとゴミ箱に入れていくので僕は悲しくなったがあまりの早業に抗議の声も出ないまま、折れてしまった根本からごっそりとすてきに葉を茂られたのが無惨にもゴミとなるのを見送ることしかできなかった。もういい、と小さな声で言うのも流されさらに刈り込まれてことは完了した。

僕は、なんだかしょんぼりしちゃった、と零して座り込んだが、奥さんはわたしに鋏を任せたあなたに任命責任がある、と胸を張るばかりだ。そんなことはどうでもいい。どちらにせよ折れてしまっていた根を立て直すこともできないし、切ることになったのは変わらないだろう。それでも、こうもあっけなくこの二ヶ月の生育を否定するかのような出来事に動揺することくらい許してほしい。そもそも作業としては一人でできる二人で行ったのも、面倒だったからというのも確かにあるが、ここも切らなくちゃかな、そうだね切るのは惜しいね、などと、これまでのブライアンの健闘を讃えながら、葉の一振り一振りを見送るようにして切りたかったからで、僕が意見する間もなくどんどんと切られたかったわけではない。なされた判断という意味では正しかったし、二人で協議しても同じ結論だったろう。それでも、いちいち、これもかな、そうだね、と確認したかった。僕はブライアンの鬱蒼としていくのを、困ったな、と言いつつも嬉しい気持ちで眺めていたが、奥さんは本当に困って疎ましく思っていただけかもしれない。そういう二人の心持ちの違いが悲しい、とここまで言うと明らかに嘘で、奥さんがブライアンの繁る様をすこしく疎ましく感じていたのはわかっていたことだし、奥さんにそこまでの思い入れを求めるのは筋違いであるし、そもそも他者に自分と同じように感受しろと迫ることほど馬鹿らしいことはないのであって、僕はただ僕の目に愛着を残したブライアンの鬱蒼がいま目の前にないことが受け入れ難くて、ただその不在に文句が言いたいだけなのだ。あの楽しげに奔放だったブライアンは今はいない。なんだか爽やかにさっぱりしたブライアンがいる。僕の目はそれに慣れない。なんだか取り返しのつかないことをしてしまった。奥さんは、髪と一緒ですぐ伸びるでしょ、とすこし呆れたように言って引っ込んでしまった。そうだ、これは致命的に失敗した散髪の後悔に似ている。今のこの形はブライアンに似合ってない。と、これまた別の難癖のつけ方を覚えて始める。iPhone に保存された、来たばかりの頃のブライアン、新しい葉をつけ始めたブライアン、いよいよ鬱蒼とするブライアン、どれもすてきだった。あの喜ばしい形の影も、いま目の前の姿からは感じ取れない。僕は写真と現状を見比べて溜息をつく。奥さんはそこそこのところで相手にしないことに決めたらしく、それはかなり正しい。愛着は執着と似ていてそれだけ愚かだから、理が奥さんにあるのはわかるが愚かな側はだからといって納得はできずますます意固地になる。前の方がよかった、ちゃんとあの場で止めてあげればよかった、見殺しにしてしまった、そもそも奥さんが言うように鋏を自分で持てば、でも、僕一人ではこんなにも思い切りのいい鋏は入れられなかったろう。やるせない。僕が悪いわけでも奥さんが悪いわけでもブライアンが悪いわけでもなく、ただ各々が各々の生理に従った結果、おそらく傷ついているのは僕だけだった。

悲しみに任せてここまで書いてきて『長い一日』だ、と気がつく。圧力鍋への抵抗や、びしょびしょになるズボンを思い出していた。それで奥さんに近づいて、僕は今こういう気持ちです、と滝口悠生の小説のいくつかの場面を一緒に読んでもらった。奥さんは、はっはっ、と笑って、ナイーヴなのね、と言った。それでなんとなく二人の間の微妙な緊張は解かれた。オオゼキまわりのエピソードは本当に好きで、奥さんもぜひ一冊通して読むといいよ、と押しつけた。滝口悠生と保坂和志くらいしか僕はほとんど小説を読まないのだけれど、この二人の好きなところは変化よりもそのままであることを愛でることだ。日々生きるというのは絶え間のない生成変化ではあるのだけれど、絶えず生成変化するというのは代謝のようなことで、維持のための変化であって、ドラスティックな変化をひっきりなしに引き受けなくてはいけないわけではない。幸福とは抜本的な生活の変更の結果ではなくて、こういう毎日がずっと続いていけばいいな、という感覚を守っていくことであったりする。そういう生活の保守的な部分を否定して、変われ、変わり続けろ、と責め立てる声には抗っていきたい。そういう卑近な愛着にしがみつく頑固さを感じるからこそ僕は滝口悠生や保坂和志の小説が好きなのだ。

三日ぶりとかだろうか、階下に出るとポストに「代わりに読む人」と印字された封筒が投函されていた。

ワーイ! とさっそく開封し、いい本だなあ、やっぱりハードカバーって本って感じがするなあ、とにこにこする。同封されていたお二人の便箋もうれしく、挟まっている「謹呈」の紙まで凝っていて楽しい。なんだろう、友田さんもわかしょさんも僕はなぜだか勝手に仲間意識を持っているようで、だから同志からの献本という感じがあって、非常に嬉しい。ポイエティークRADIOでのお喋りも決まっていて、大変楽しみ。こうして買うつもり満々だった大切な一冊をいただいてしまったのだから、こちらも微力ながらわーわー言って盛り上げるぞ、と張り切る。ぱらぱらと捲ると、やはり文章が巧い。バカみたいな感想だけれど、なんて端正な文章であろうと驚く。僕はどうやってもこうは書けないな、とすこし卑屈になりかけるほどだが、ほんとうはただ単純に感心するばかりで、自分のことをはっきりと考えるとするならば、僕が『プルーストを読む生活』で日記という形で一年かけて書いたようなことを、端的にバシッと格好よく書いている箇所がいくつもあって、それだけでなく全体として体現してもいて、もちろんそこに共鳴するのだけれど、日記と違って『うろん紀行』は構築的であるからこそ、読むことそして書くことについて、僕がほとんど行き当たりばったりの日々の読み書きの中で偶然のように表出していったようなことを、わかしょさんはある程度意識的に試み、成功しているのだ、と思うようなところだった。僕はやはり日記は作品ではないというか、毎日の日記はたしかにある種の表現であるとか活動として矜持をもってやってはいるが、一個のパッケージを持ちうる作品と呼ぶことには抵抗があって、要は僕も『うろん紀行』みたいな作品を書きたい! と思えてくるのだった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。