2021.07.29(2-p.150)

昨晩のカツレツに味噌だれを塗ったのを辛子マヨで和えたキャベツと一緒に食パンに挟んで食べた。ほとんどコメダの味で、コメダとは甘じょっぱい味噌と辛子マヨのことであると知れた。追っかけて30分かけて焼いた鶏肉も美味しくいただく。

日傘をさすようにしてから外歩きはだいぶ快適で、しかし近隣には老若男女ほとんど日傘を見かけない。多くは無防備、次いでサンバイザー派が続くのだ。

初台に着くまでは『IN/SECTS』を読み終え、『思想としての60年代』も終盤。すでに見慣れた駅に着くと見慣れない看板があって、新調されたらしい。『長い一日』以後のまなざしでは隣の床屋のぐるぐるも目に喜ばしい。格好いい看板だった。写真を撮ってから階段を上がる。入るとまず目に入る腰より低い書棚の上に見覚えのある本が置いてある。『プルーストを読む生活』だ! 好きなのは窓側奥から二番目の席。夜になると眼下のレストランのテーブルクロスの白さが目に楽しいのだけれど、最近はそんな時間まで居ることがなくなってしまった。注文後そそくさと自著の嬉しい待遇を写真に収める。これまではレジの横の積読スペースに積んであってそれも嬉しかったが、この場所はまた特別だ。ノンアルコールビールをいただいて、60年代を終わらせる。それからコーヒーとチーズケーキ。さあいよいよ『通天閣』。今日はがっつり読むぞお。しかし腰が痛くなってきた。席をうつろう。今度は二人がけのソファを贅沢に一人で使って、自分の本の厚みを眺めながら水を飲む。さ、今度こそ。『通天閣』は手首に悪いので、ソファのクッションを背中に一個、残りの二つは膝の上に積み上げて、その上にふわっと載せることにする。とても快適。気持ちよく読み進める。もともとがっつりした読書を要請してくる本ではあるが、だからこそがっつり読むことを全力で肯定してくれる場所で読むのが嬉しくなる一冊でもある。

この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。

という、保坂和志経由で強く打たれた註に辿り着く。これはやはり非常に優れた一文だ。この註は以下に引用する段落についている。企業や大家の横暴を敏感に察知し、派手な訴訟騒ぎを引き起こしたり、不法に空き家を占拠して所有権を争ったりと、アナボルの両派の紛争からは不思議に距離をとったまま、プラグマティックな実践を続けたという「法についても理論的整合性とか道徳的潔癖性といったものからはほど遠かった」逸見直造という人物についての分厚い記述の締めくくりに当たる部分だ。逸見の特徴とは、「陽性」つまりはネアカであったことだという。

この「体質的に陽性」であるという点については、「遊侠社会主義者」岩出金次郎にも似たようなことがいえる。両者とも、カネに困ってはいなかったことは重要である(岩出は私財を投じた「日本労働新聞」が災いして没落していくのだけれども)。逸見直造は家業の箱屋が繁盛しているおかげで、とりわけ借家人同盟を結成してからはつねにカバンに札束をたくさんつめて歩いていたといわれる。これは重要なことだ。それは「存在と意識」の不一致をあら探しして、倫理的一貫性の側から攻撃するというこの社会ではよくみられる、ケチくさい道徳からはなから無縁であったということだ。組織性の刷新、関係性の発展、戰術、理論の生産や創造に心を砕くよりも、近い立場の人間の「不一致」や「欠落」をするどくかぎとり、そこにあるかもしれない生産や創造をくじき、その非難や糾弾となるとひときわ活性化するたぐいの「陰性」の要素から、かれらを遠ざけたのである。岩出金次郎や商売上手であった逸見家のすぐれた商人的体質を「大阪的」とすることを受けいれたとしよう。しかしそれは希少性を家訓とし、つねに節約的にふるまうたぐいの「経済人」的であることと等しくはない。むしろ過剰から出発し、「いくら使ってもへるものか」とばかりに知性(とカネ)の出費を惜しまない大胆な発明性といった点においてそうであったというべきなのだ。

酒井隆史『通天閣』(青土社) p.414-415

これは本当に重要な指摘だと思う。僕たちは貧乏臭さに徹底的に抗っていかなくてはいけない。清貧などクソだ。僕が会社員という立場になんだかんだ固執するのも要はいつでも「カネならあるぞ」と嘯けるようでありたいからだ。カネに苦労していてはやはり鈍する部分というのはあまりに多い。明日の食費さえおぼつかなかった学生時代の貧しさはそれを痛感するのに十分だった。人は食うに困ればどんなさもしいことだってやってのけるんだな、ということを実感としてしているからこそ、僕はとりあえず稼いでおきたい。それは資本主義リアリズムとしての諦念でもあるだろうが、それ以上に資本主義リアリズムに呑み込まれないために必要な処置でもあるのだ。カネがなければカネは相対化できない。ある程度の商人的体質は受け入れられるのならそうした方がいい。しかしそれはつねに節約的にふるまうたぐいの「経済人」的であることと等しくはない。むしろ過剰から出発し、「いくら使ってもへるものか」とばかりに知性(とカネ)の出費を惜しまない大胆な発明性といった点においてそうでありたいよねと言いたいのだ。先の註はその後こう続く。「(…)私たちがいまここでさまざまな知恵や工夫によって、決して私たちが逃れることのできぬ「陰性」をたえず遠ざけることから出発しなければならない。これは主要には心がまえとか道徳の問題ではない。これは制度の問題であり、社会を変えることそのものの問題なのである」。

満足してお会計。いつのまにか店番が阿久津さんに替わっている。こうなると帰り際、階段のところまで見送りに出てくれる阿久津さんと軽くお話しするのがいつも楽しみだった。今日は「文學界」いつ出るんですか、と投げかけてもらって、そこから、当日は阿久津さんのB&B でのトークの日の日記を読み返して、俺も今えずいてますよ、って思ってました、みたいなことを伝えられてよかった。

帰りの電車ではKindle でポチった『すべてはノートからはじまる』。『ライティングの哲学』も一緒に買って、要は僕はなんか構築的に書くことや作ることに対するモチベーションをインスタントに補給したい気分のようだった。こういう本は似たようなのを何冊も買ってしまうし、買うたびにちゃんと励まされるのだから簡単だった。僕たちは簡単に「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させられ、常態として萎縮しつづけることになる。ライトな自己啓発やハウツーを読むこと。結局それは「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」の抜本的解決から目を逸らし、常態としての萎縮を延命させることになりがちではある。とはいえ、一時のポルノだとしても、ライトな自己啓発やハウツーを恥ずかしげもなく補給することで奮起して、無謀な何かを計画し、実行を試みるとき、その軽薄さは確かにその持続のあいだは状態としての萎縮を脱することもできるのだ。貧しいまま理論的整合性とか道徳的潔癖性を追求しても、結局それは「存在と意識」の不一致をあら探しして、倫理的一貫性の側から攻撃するというこの社会ではよくみられる、ケチくさい道徳に帰結してしまいがちだ。それだったらむしろ、一貫性も潔癖さもないままに、軽佻浮薄に実践を積み重ねていった方がずっとよいではないか。理想とは、いい加減で行き当たりばったりな商人根性によってこそうっかり実を結んだりするものなのだ。たとえばfuzkue という場所は僕が社会に絶望しないで済む根拠のひとつであり希望だが、それはfuzkue というのが崇高な理念などに先立ってまず商売であるからこそだったりもするのだ。こういうお店にべらぼうに儲かってほしい、という素朴な思いのほうが具体的にカネの流れを変えていく。僕の経済などちっぽけなものだが、実際そうなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。