マンションのエレベーターに防犯カメラのモニターが設置されて、そこから耐え難い安い音楽と共に心底鬱陶しい安い広告が流されるようになった。くそだ。基本的に動物としての人間は他人が嫌いだ。人間は心を許していない闖入者を警戒するし、煩がる。広告のうざさとは他人がずけずけと自分のスペースに入り込んでくることだ。Twitterのタイムラインの憂鬱さというのも、似たようなもので、どちらも他人への嫌悪感を募らせる装置だ。ただこちらは、自分で選んでフォローしているところから流れ込んでくるわけで、まだ納得できなくはない。扉を開けた自覚はあるからだ。こちらが入っていいという素振りを見せないうちからあがりこんでくるから広告というのは不快なのだ。
今日は一日中風が強くて、火照りとぼんやりが酷かった。いまも酷い。なんにも頭が働かないが、悪態だけは出てくる。これはだいぶ誇張していて、なんだかんだと賃金のために労働したり、必要がある本を読んだり、勤勉に過ごした方だと思う。
夜は自分の読みたい本が読みたくなって、吉田悠軌『現代怪談考』を始める。のっけから好きな感じで、こういう態度こそが知性だよな、と思う。これから展開するのは主観的な妄言である、そう前置きで冷静に距離をとりながら、あらゆる知識を駆使して全力でパラノイアに遊ぶこと。オカルトの面白さとはそうしたアイロニーとユーモアのはざまで行う知的曲芸としてのそれのはずだ。肯定にせよ否定にせよ、没入もマジレスもつまらない。ゾンビもそうだし、広く伝播する恐怖の表象というのは、時代や風土の断層を浮き彫りにする。怪談を探偵小説のように考えるとき、そこで探求されているのは真実ではない。ある時代の気分のようなものだ。時代時代の不安や構造的不正が恐怖を象っていく。近世、近代、現代の怪談の変遷から透けて見える世相の変容。『遠野物語』を(自費出版、1910)と表記するところにこだわりを感じる。これは読むのが楽しみだなあ。
サブカルチャーとは本来的に政治性というものから意思的に遊離しているものなので、イデオロギーとして読解することはかなり危ういと思うのだけれど、それがどんなに欺瞞であろうと政治的なものを無縁と切り捨てる態度があってこそ、身も蓋もない俗っぽい欲望や怨望というものが現れてくる。そういった欲や情念からしか読み取れない社会の形というものがきっとあるはずだ。生々しく不合理で、だからこそ切実な個々人の生活感覚は、正しくもきれいでもないサブカルチャー的なものに記録され、保持されていく。おそらくそれは同時代の書き手や読み手が意図して形作るものではないだろう。同時代というのは誰もその全体を見通せないという状況のことだからだ。時代の形は、ずっと後になって振り返る考古学的野次馬根性が、はじめて明らかにするものなのだ。