正午前に二丁目の蕎麦屋でお昼。すでに瓶ビール二三本で出来上がっている一行の、赤い髪の一人が店内に響き渡る大声でまくし立てている。おそらくゲイバーの従業員で、フィクショナルに誇張された「女性言葉」で、あいつにボコボコに殴られて目の下切って配信に出演できなかった、配信を家で見てあたしは泣いた、というような話を僕が入店してからすでに三回目の再放送に入っている。こてこてに装われた、あたしは悲しい!と主張する言葉は、僕を含めたくたびれたおっさんたちのランチタイムを侵食し、一色に塗り込める。その暴力性。ところかまわず撒き散らされる、その強そうな生命力と、そこで語られていることから滲み出る危ういほどの儚さを前に、奮発したカツ丼セットの味がまったくわからない。なんであれ、うるせえな、と思わず笑ってしまう。今回に限らず、声がでかくてがさつな人間を目にしたときに引き起こされる、頼もしさと痛快さと鬱陶しさと羨望と蔑視がないまぜになったような笑い。僕がこのように笑うとき、いつもどこか居心地が悪い。居心地の悪さを強いられることを不当と思うような苛立ちもまたある。どちらが強いとか弱いとか、こちらのほうが多く特権を有しているだとか、そういう次元の話ではなく、単純に空間を共にする他人同士の気遣いの話というか、「内」と見做した範囲の外側にはゴミや快適でなさを押し付けても平気でいられる鈍感さへの反感があり、「うちら最強」という傲慢さの煌めきへの共感がある。
音楽と小説は僕のエゴを甘やかし、増長する。日々の生活を彩り、鼓舞し、やっていくかーという気持ちを立て直すために、そうした「うちら最強」気分のドーピングが必要な時もある。というか、そんな時ばかりだ。それなのに僕は放っておくと批評や哲学ばかり読んでしまう。作品について語るという行為の作品性にばかり魅せられ、そこで論じられる対象や素材をあとまわしにしてしまう。結果、なんだか肩が凝る。意識的に感情の換気が必要で、窓を開けて浴びるように受け取ることを忘れないようにしたい。さっき換気を喚起とミスタイプしたけれど、どっちでもよかったかもしれない。
渋谷WWWでの春ねむり × valkneeのライブ。開演まで余裕があるように退勤できたから、パルコ裏のHUB のハッピーアワーに駆け込み、ビールとフィッシュ&チップスで楽しく過ごす。
ライブはとてもよかった。春ねむりを聴きながら泣いてしまって、慌てて踊って振り払った。ナイーヴなほど誠実なMC や、全身を楽器のようにして踊る姿や、ものすごいシャウトを前に、思わずこの小さな一人に多くの祈りを託したくなってしまうから。他人に期待や希望を押し付けて安心したくなる態度を殴りつけるようにして頭を振って、拳を上げた。イ・ランが「誰もヒーローにしない」と話すインタビューを思い出していた。この人をヒーローにしてはいけない、と思わせる怖さを感じる。それと同時に、もっともっと大きな箱で、すべての人を圧倒するところを見てみたい、とも思う。ここじゃ狭すぎる。大所帯のバンドを引き連れての二時間弱のワンマンが見たい。
valknee は登場からキマっていて、カワイイの権化で、サンリオみたいだった。軽さも脱力具合も格好よくて、悪口の歌が冴え渡って、そのくせ気遣いに満ちていて、ゆるゆると楽しい。たしかにどこか温泉気分。ゆるいふりして冷徹なの、とても好きな格好よさ。キティさんと対バンして欲しい。
ほくほくした気持ちで相変わらず不思議に浮かれた人で溢れた渋谷を歩く。リリー・アレンを聴きながら帰宅。日記を書くあいだ、くしゃみが止まらない。