2022.08.27

新宿の紀伊国屋書店で『実話奇彩 怪談散華』を買う。蛙坂さん、三柴さんは僕にとっては嫌味のないペダンチック──というのは語義矛盾なのだろうが、僕はスノッブも好きだし衒学者も好きなのだ──なお兄さんで、勝手に懐いている。なんというか、読み手として信頼できる人というか、とにかく愉快そうに本を読む先輩と見做しているところがある。円盤に乗る場でのトークでご一緒して以来、高田さんもまたどこかでご一緒したい年長者である。読むのが楽しみだった。

ランチにすた丼的なお店の下品な唐揚げ丼をかき込む。お腹を壊す覚悟だったが、ぺろりと平げ澄ました顔をしているから驚いた。食事中、開いた文庫本の右側を重石代わりのiPhone で押さえてさっそく読み出す。きょうのお昼はなにからなにまでお行儀が悪い。竹書房怪談文庫のアンソロジーの大半は、目次にだけ著者が記されていて、本文に付されるのはタイトルだけのようだ。まずは誰が書いたとか気にせず頭から通読して、それから照らし合わせようと思う。食後のコーヒーをドトールでたらたら飲みながらもう少し読む。いまのところ「件の剥製」、「夜蜘蛛」、「眩暈」、「「ファ」の日」「オレンジの髪」が好き。こうして挙げてみると捨て曲がほとんどないアルバムみたいだ。「水に嫌われているのよ」は蛙坂さんで、「遊んだ日」は高田さんだろう。特にこの二篇はお二人の文体が存分に発揮されていると感じるが、ここまで書いて外してたら面白いな。「遊んだ日」と「密室」は、ほとんど疑いなく高田さんの名人芸だと感じたので、これで他のお二人の文章だったら僕の読みの適当さが知れるというもの。流石にこれを書きながらこっそり確認してしまったが、合っていてよかった。こうして見ると、目次を見るだけでも、これから読んでいく後半の蛙坂さんラッシュが頼もしく目立っている。三人の中で明らかにいちばん話数が多いのではないか。

今晩は「フェイクドキュメンタリーQ」の新作の配信もある。日記を書いていたら思い出して、慌てて再生すると配信20秒前だった。危ない。間に合ってよかった。続編らしい壮大さが予感されて、わくわくする。じっさい大作で、四〇分超えだ。長回しからのテロップ挿入によるさりげない省略、観客の集中力を切れさせない編集の巧みさが今回も光っている。楽しいなあ。『呪詛』もそうだったが、僕はもしかしたら地下とか深海とか、後戻りできなさそうな潜行がかなり怖いかもしれない。というかこれははっきりとアビスのせいだろう。何よりも、引き返せないことが怖くて仕方がない。いつだって日々は不可逆で取り返しがつかない分けだけど、それをはっきりと形にされるだけでこんなにも心細いし、不安になる。『地下世界をめぐる冒険』を読んだ時も、興奮よりも怖さの方が強くて、僕はもう冒険とかできそうにないなと寂しくなったのを思い出した。なるべく家でぬくぬくしてたい。すこしでも不安を感じたらさっさと引き返して寝たい。だから今回の映像も、つい深く潜り過ぎて、帰れないかもしれない、という不穏さが膨らんでいく過程がいちばん怖くて、ああ、もうこれはもう取り返しがつきそうにない、という段階までくるとかえって安心してしまう。映像のホラーは、決定的な何かが起きる瞬間ではなく、何も起こらず平穏が続くかもしれない、という淡い期待が、しかしこれはホラー作品なのだから何かが起こってしまうに決まっているだろうという諦念を微かに上回る瞬間にこそ果実がある。まだ今なら引き返せるかもしれない、と本気で考えてしまうからこそ、不安が募り、致命的な一歩の余計に悲鳴をあげたくなる。ちょうど決定的な場面に差し掛かるタイミングで、ひょいっと奥さんが後ろから覗き込んできて本気で体をびくつかせてしまった。ああ、今回僕は怖がっていたんだな、とわかってしまう出来事だった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。