2022.08.30

いつもの時間に起床。置きっぱなしのiPhone の充電は4パーセント、睡眠スコアは87点。個人ベストかもしれない。歯も磨かなかったのでリビングでは奥さんが自分ののついでに用意してくれた歯ブラシの上の歯磨き粉がカピカピになっていた。気分は爽快で、体のだるさもない。なんだか自分だけ取り残されたような感覚もある。自分の知らないところで世界が進行している感じ。ちょっとしたゾンビ映画のオープニングの気分で顔を洗い、コーヒーと朝食を準備する。食べていると奥さんが起きてくる。可能であれば家を出たい時間を30分過ぎていて、いつも通りだ。よく寝た。

今週の録音で日記の継続についてえらそうに語ったそばから寝落ちして日記を書きそびれるの、滑稽でいいな、とまんざらでもない。その場で口を滑らせたけれど──そう、多分口は筆と同じように滑る──、『会社員の哲学』を書いている。Workflowy で書いていたのだけど、参照するために旧版の原稿をすべてインポートしたら無料版は月に250項目までしか書けないよ、と警告文が出て、ありゃ、と思う。Twitter の代替としても、メモ用紙としてWorkflowy を使っていくやり方に愛着も出てきたところで、でもがしがし書けないならこれは駄目だなと諦めて、なんだか煩雑そう、という印象で避けていたDynalist に移行する。こちらは無料でも無制限とのこと。アウトライナーに慣れていて、箇条書きになる感じも我慢できるようになっていたからすんなり使い始められて、微妙なショートカットの違いさえ克服できれば早々に乗り換えられそうだった。いつだか違和感を覚え面倒に感じたのはアウトライナーの形式そのものに対してであったらしい。むしろDynalist は表示形式で「article」を選べば、先頭に自動で付く黒点を非表示にできるっぽい。アウトライナーは、興が乗ってきて段落をまたいだ考えを書きたいときも先頭にビュレットがついてなんとなく集中力が切れるのがいやだった。アウトライナーとはそういうものだし、僕の使い方が変なんだと許容していたけれど、これも解消できる。最高じゃん。しかもドキュメントごとに表示形式をカスタマイズできる。ツイート代わりの文字の嘆息や、タスクの洗い出しなんかの時はビュレットが必須だから、ばーっと書き出して拡散する場所と、すこし凝縮して長く考えを練る場所とを作っておけば、その行き来も自在だ。断然こっちのほうがいいじゃん! 道具というのは、じっさいに触って、使ってみないと自分の需要というのも形になってこないものだなと実感する。

雲模様で雨だと思い雨靴に長傘で家を出てから予報を見ると今日は降らなそうで、なんでだか確信を持って雨だと思っていたな、と不思議だ。

書店で『ユリイカ』を買う。Jホラー特集。『早稲田文学』のホラー特集がすこし物足りなかったからいい補完になるといいけれど、僕は特集に惹かれて『ユリイカ』を買って満足したことがない。思ったよりも物足りない、という気持ちになりがちなのだ。今回は傑作「無断と土」の山本浩貴の論考目当てで買ったから、読みでとしては十分だろう。「ホラーとリアリティ」の企画編集もこの人の仕事だったはずだから、無条件に面白かろうとまでは思えないのだけど、編集と執筆はべつものだから、書いたもののほうが期待できそうな気もする。というか、「無断と土」の文脈で期待するなら編集よりも批評や小説を求めるほうが筋が通しやすい。さっそく近くの喫茶店に移動し、巻末の「死の投影者(projector)による国家と死」をわくわく読み始める。のっけから衒学的で格好いい。開示される見通しはあんがい素朴なはずなのだが、語り口の難解さが、なんだか凄いことが書いてあるような気がする、という知的興奮をもたらしてくれる。寄稿者のプロフィールに「言語表現/レイアウト」とあるが、僕は確かにこの作家の文章は、文字のレイアウトの格好よさとして読んでいる。だからこそ、本人の手によらない文章群のレイアウトである『早稲田文学』はその内容の単純素朴さが目立ってしまったのかもしれない。僕はこの、わざと難しくしてない?と言いたくなるような文章のキメキメのボーズに黄色い声をあげたいだけなのではないか。そして、こうした文体は批評の現場で濫用されがちだけれども、小説においてこそ有効に機能しうると示したのが「無断と土」だとどこか感じている僕としては、批評でこれをやられてもなあと少しく感じているふしがある。もっと平明に書ける内容を、わざわざこのようにすることでどんな効果があるのだろうか。通読したら印象が変わるかもしれない。ともかく今の段階ではこの内容でこの形式を選択する意味ってなんなんだろう、と訝しんでいる。半ばで昼休みが終わる。

霊は生きた肉体を媒介しないことには表象しえない。だからそれは死そのものではありえない。ホラーの映像表現における内容と形式のベタ過ぎる一致は、霊によって要請される媒介として、画面の手前側にいる観客の肉体をも数え上げられることの必然的な帰結である。霊による媒介の乗り越えは、媒介とされた個人から主体性を奪取することによって達成されるが、このとき世界の法則は霊の側から書き換えられることになる。このような物語群の問題は、ほんらい社会構造の側に原因を求めるべき差別のような課題についても、過剰にロマン主義的な視点から、個人の因果としてしまうところにある。個人的な運命の物語として制作されるホラーは、制作者の内面化された差別意識を自然化することで既存の差別構造の再生産に利する可能性を孕んでいる。一方で、そのようにロマン主義的だからこそ、世界を前に無力を感じる個人を、環境によって規定された「私」から遊離させ、世界の法則を書き換える主体として捉え返す契機ともなりうる。

「差別」までの節では、そのような話がなされているように思う。だいぶいろいろ端折ったうえに個人的な問題意識を上塗りしてしまっているけれど。ロマン主義的主体像の功罪を検討しつつ、主体を超克すべきものとまでは極論せず、演劇的に相対化したうえで回帰していく。そのような運動としてのホラー──ここまでくると随分自分の関心にすり替わっている。本をリテラルに読むというのは困難な作業だ。できる気がしない。端的に、やっぱり何が書かれてるかさっぱりわかってない気もしてくる。

帰宅して『霊的ボリシェヴィキ』を観る。唾棄すべきヒトコワ発言の華麗な黙らせ方とか、タイトルが表示されるまでの流れが完璧で、大爆笑。しかし最後までケラケラと出来のよいコントとして楽しんでしまって、これでよかったのだろうか、と思う。

『ユリイカ』はお昼を食べながら読んでいたらページにケチャップがはねてしまったので遠慮なくお風呂へ。「距離」以降を読んでいく。すこし唐突なようにも感じる最後の二つの節の記述で、なんとなく起点となる問いが見えたようにも感じる。それは「無断と土」における慰霊の問題と通じていて、究極的に私的であるはず──というのは僕の思い込みかもしれないが──の死が、つねに他者を介してしか語れないこと、自分自身の死を自分の所有とできないことへの苛立ちなのではないか。そんな気がした。このようなざっと一読しての雑な概観は、それこそ書き手の自由意志を奪う側にまわるために無茶な由来を捏造する態度そのものだろうな。註でさらりと予告されていた本が楽しみ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。