日記本を作るとなると、校正のために暇があれば自分の日記を読んでいるわけで、21年の僕はずっと悲壮感があって、ユーモアがなくてつらい。僕は追い詰められると可笑しさのつもりで小難しいことを捏ねくりまわしだすのだが、なにが言いたいのか自分でもわからないまま使い慣れない語彙を使おうとするからいまの僕でさえうわ言のようにしか読めない。いちおう自分だから言いたいことを察することはできるので、さすがにこの書き方はまずいからもうすこし読めるものにしてやろうかと親切心も湧いてくるのだが、それをしてしまうと日記のもつ粗野であることの力みたいなのが損なわれる。読む気がしないところもなるべくそのままに残しつつ、明らかな誤字だけを直すようにしているのだが、助詞のよたつきをどこまで補ってあげるかはかなり迷う。迷った上でそのままにするのだが、意図しているのか微妙な自分の悪文は直視するのがしんどい。僕は悪文を好んで書くが、意味をとりづらい長い一文を書くときはあえて助詞を誤用したり読点もなしに話題を転換させたりしながら読む側の躓きを用意しながらも、音を拾って読むとそれなりにリズムがあるような書き方をしているときは作為で、そうでないときは単純に自分で自分の書いた文字が読めていないだけだからそういうのはちゃんと直したほうがいいようにも思う、はたから見たらこちらが意図していようがどうだろうが悪文は悪文だろう、読めていないときは読めていない人の書く酷い文が乱打されているその様子も日記の場合なにものかを雄弁に表してもいるともいえる。きれいに整えられた文章は気をつければある程度だれでも体調に関係なしに書けるようになるが、なにかしらの内在的な必要をもった悪文は元気がないと書けない、書こうとして書くのではなく、そうとしか書けないという意固地な直観だけを頼りになるべく遠くまでうねらせるように書きそれを注意深く読み直すことで少なくとも書いた本人にとっては必然を予感するものとする。そうでない悪文はただ恥ずかしいだけです。今日は寿司食べてカラオケ行ったから元気だ。もっとBUCK-TICK のレパートリーを増やして奥さんとBUCK-TICK 縛りのカラオケをするんだ。