2023.06.03

明日の「非哲学者による非哲学者のための哲学入門読書会」に向けて、ほかの参加者の方々のホワイトボードやレジュメや講師のコメントに目を通す。僕はこれまで多分に保坂和志の影響を受けた味読に偏重している自覚があるが、ひとまず書いてあることを真に受ける態度というのは、すくなくともこちらの事情よりも書いてあることを文字通りに受け取ることを優先するという面で非常に基礎的な態度であるなと改めて思う。こちらが何を読みたいかではなく、書き手がなにを書きたかったのかを読む。それだけのことが、どうやらとても難しいことであるらしい。もしかしたら本を読むというのは役に立つことなのかもしれないと思えてきた。相手の文脈を推定し、相手の目的意識に立って話を聞くという素朴なコミュニケーションのいろはを習得するためには、そこそこの訓練がいるのではないか。そしてそれは、過剰な情報量をもつ生身の人間で練習するよりも、ほんの数キロバイトにまで圧縮されたテキストを吟味する方が負荷が少ない場合もある。テキスト以外の情報の方が解読しやすいという性質の人間も多くいるのであろうが、僕のような言語偏重者にとってはそのほうが人との交流に必要な技術を一通り獲得するのに適切であったということはあるだろう。

本を読んで何も変わらないというか、そこに書かれた論旨に賛成か反対かの態度表明しかできない人たちが何を読んでいるのかというと、おそらく自分自身を読んでいる。これは誰と話していても自分の話しかできない人の聞けていなさとよく似ている。──僕は僕よりも面白くないと思った相手に対しては聞く面倒を避けたくて自分の話しかしないので済ませるので人によってはお前も聞けていないじゃんと思われそうではある。本であればある程度はきちんと「なぜこれが面白く感じられないのか」「書き手は何が面白くてこれを書いているのか」を慮ろうという構えがあるのだが……ここまで書いてわかったが、僕はあくまでテキストに関心があるのであって、生身の人間にはそこまで興味がないのだろう。だからテキストの手前にある人柄への好悪の感情を前提とした一種のエッセイに対して冷淡なのかもしれない。僕はテキストに奉仕する人間に対してはその問題意識をどうにか共有できないかと努力できるけれど、自分にテキストを奉仕させようという態度を察知すると引いてしまうのかもしれない。あなたの話やあなたの話から読み取れるあなたの固有性に興味があるだけで、あなたには興味ないです。

お昼に窯焼きピザが食べたいということで近所の気になっていたお店まで歩いていくと、目の前で「CLOSED」の札を出されてふたりして、ええっ、と声をあげてしまった。店員は笑って、ごめんなさいね、と応えた。まあでも、爽やかな天気でいいお散歩だったね、とすごすご帰宅。夜にべつの気楽なイタリアンに行く。窯焼きピザは不正解ではないけれど正解でもない塩梅で、がっかりはしなかったけどまたすぐにリベンジしてもいい、と奥さんは真剣な顔で言う。ちゃんと正解に辿り着こうね。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。