きょうは無地のTシャツを着るつもりだったのに衣装ケースの中にあるのはお気に入りのゾンビのTシャツしかなくて、しかも同じのが3着もある。いくらお気に入りだからといって複数枚買った覚えはない。急いでいたのでいらいらする。いったいぜんたいどこのどいつだ、僕の無地のTシャツぜんぶにゾンビのプリントを入れたのは!仕方がないのでそれを着てバタバタと家を出る。階段で足を滑らせて盛大にこけた。もう全部いやになっちゃったな、と左の頬を踊り場のコンクリートに押し付けたまま思うと目が覚めた。また朝をやり直さなきゃいけないのかと憂鬱だった。僕は時間がループしたら一周目でなにもかもやる気をなくしてしまうのだなと知れた。面倒くさすぎる。ぜんぶばからしくなってしまったのでけっきょくたっぷり二度寝して家を出る。
『チェヴェングール』が終わって、だらだら途切れ途切れに読んでいる『脱獄計画』を再開しようかとリュックに入れてきたが、夢見のせいでつまらない気持ちでいたのでのどごしのいいものをとkindleで『エニグマをひらいて』。電子書籍はつるっとしていて情報に乏しい。ふだんはそれが物足りないが、紙の物質性すら厭わしいような気分のときには助かる。劇場という空間装置を前提とした上演と、平面上に展開される配信映像くらいの違いがある。体験としてまったく異質のものであるが、テキストの情報だけを受け取りたいなら電子のほうがひっかかりがない。元気な時の僕は紙のざらつきをこそ楽しんでいる気がする。紙で読むとき、僕が読んでいるのは文字だけではない。物質性をまるごと読んでいる。だから物体としては好きだけれど内容はいまいちみたいな本のほうが、書いてあることは面白いがモノとしては退屈という本よりも読み通せてしまう気がする。しかし電子は所有しているという実感も、積んでいるという手応えも薄い。すぐに買ったことを忘れてしまう。いつか必要を感じて買っていた『哲学の門前』のことを思い出し、昼休みに読んでいた。
事務所のほうがズゾゾと茶を啜ったり、独り言で悪態をつくような不快な音にあふれているから作業効率と心の安寧のためにイヤホンで耳を塞ぎがち。月曜に配信した自分の録音を聴いていた。やはり聞く人のことをまったく意識していなくて、前提の丁寧な地ならしもなければまとまりもない。それでもまあ自分では思ったよりも面白く聴けたので安心。もっと深刻な感じになっているかと思った。どうしたってシリアスになりきれないちゃらちゃらした人間でよかった。
帰り道でも『哲学の門前』。電子だと光るから夜道を歩きながら読めて危ない。あと電子は早い。するする読んじゃう。これはやはり、モノとしての余計な情報がないからであろう。貧しいからこその特性だ。
夕食は先日の鶏の塩釜焼きを茄子のグリルとあわせたもの、ラタトゥイユ、たいめいけんサラダ──たいめいけんと銘打っているがだいぶ別物。奥さんの実家でいつの間にか独自進化を遂げたもの、のはずだったのだがそうですらなく、奥さんが「実家で供されていたサラダ」の名前をなぜだかそう呼び習わしていただけのもの──、どれもたいへん美味しくて、たっぷりあって、うれしい。食卓で聞きたい言葉ランキング一位は「まだ沢山ある」です。