電車のなかではきのうの打ち合わせで教えてもらった本を読んでいた。しかし家に三冊くらいあると思った文庫本が不思議と一冊も見当たらず、三冊もあるしとじわじわすべて売り払ってしまったのだろうか。謎である。生活とは一個の謎であるが、僕は僕の日記で僕自身をなるべく謎として、つまりはなんだかよくわからん人として加工したいと考えている。こいつはいったい何なのだろう、本人もわかってるんだかどうだか定かではない。そんな存在として。文字というのはヘンテコなことができてしまう。言語じたいがひとつの嘘であるからだ。週末はどちらも僕単体での予定があり、朝から晩まで家を空ける。旅行でもないのに土日両方とも奥さんと離れているというのはなかなかの事態で、いまからどこか寂しがっている。僕がだ。奥さんはどうだかわからない。僕が自分で外に出るくせに僕が心細くなるというのはどうにも身勝手の極みである。
本日の労働飯はオムライス。繁華街に生き延びる老舗の食堂があるとつい入ってしまう。あと数年でなくなる景色だろうから。今後この国は貧しくなる一歩だろうから、古いものが新しいものに取り換えられるとき、それはよりケチ臭いものになるということだ。僕はそれがやるせない。目先の投機のために過去にはあり得た贅沢をあっさりと捨ててしまうこと。この貧乏根性が許せない。懐古とはまたすこしちがった感覚。過去に何があったとも思えない。ただただ未来に失望しているといったほうが近いだろうか。どうせ過去を食いつぶすほかないのであれば、せめて食いでのある形で残しておいたほうがよいのではないかという心配だ。
態度がでかいというのは大事なことだ。堂々としていればなんだか説得力がある。真っ当なことを言っていてもオドオドしているというだけで信用してもらえないことがある。政治家がとにかく自信たっぷりに知性をドブに捨てるような言動を繰り返してはばからないのも、とにかく中身よりも態度で判断してしまう人間一般の認知のバグによるもので、僕はこれも腹立たしいが、僕自身だいぶ不遜なのでこれで得をしているところも多いから複雑だ。何の根拠もないままにさも相手よりもなにかを知っているかのように話すことで乗り切ってきた局面がたくさんある。柿内名義での活動ではなるべくこの不正に与したくなくて、場合によっては普段よりもあえて下手くそに途切れ途切れに話すように心がけている。調子に乗るときはしっかりべらべら喋るのだが。僕はじぶんでは内弁慶だと思っているし、柿内正午という装置を一種のヤドカリの殻のようなものとして、つまり家ごと動けばどこにいても家のなかかのようにのびのび振舞えるものとして作ったように思うのだが、気がつけばむしろふだんの僕のほうがいけしゃあしゃあとしており、柿内のほうが控えめだったりもするので当初の区分はすでに失効していると考えたほうがいいだろう。この段落のようにとくべつ何も言っていないようなものを書くのが僕はとても好きだ。
きょうから円盤に乗る場ではお祭りが開催。テキストを書いた朗読が上演される。観ると体がほぐれる演劇。僕は実話怪談の方法とまた聞きの信用ならなさを利用して妙な短編をいくらか書いた。まったく上演のことを想定しないで作らせてもらったから、どうなることやら楽しみだ。日曜日にようやく観ることができる。ゲネの映像にはアクセスできなくもないのだが、本番を楽しみに待ったほうがいいようにも考えている。
舞茸ととうもろこしの焼き飯、鱈の照り焼き。茸、とうもろこし、魚の骨はこんがり揚げたのもある。クミンの利いた玉ねぎスープ。