朝起きれず。目は覚めたのだが、アラームもろもろ解除しながらそのまま寝落ちてしまった。抗いがたい眠気。どうにかぎりぎりでコーヒーとマフィンの朝食を済ませ出社。それなりに働く。
Twitter は告知のための道具と割り切るようになってから、告知したい人にまで届いていないなと感じることも増えてきていて、それはそうで告知にまみれたプラットフォームなどべつに楽しくもないから見に行かないだろう。だからといってたまに思い付きを書いているブルースカイやマストドンと同じような投稿を並行して書くのも億劫で白々しい。そもそも日々の考えを試しに短文の連なりとしてSNSに投稿し、反応を見ながらまとまった何かを書き、作品ができたら告知する、そのような循環がうまく機能しなくなっていて、自身の制作とその発表においてTwitter への依存度が高かったことを思い知る。もろもろ面倒で、ほとんどをこの日記に集約しかけているが、このように巨大プラットフォームへの依存度が減ってくるに従い、てきめんに制作を周知する規模や質が落ちているのもわかっている。今後も本を自作するとして、これまでの規模を維持しようと思ったら何か新しい工夫が必要だろう。わかっちゃいるが、面倒だ。ひとつのプラットフォームで四、五年かけて開拓してきたルートが、基盤から荒廃していくという経験は、けっこう堪える。荒廃を自覚しつつも使えるうちは使っておくというのが実際的ではあるのだが、これはこの国の荒れ果てっぷりを自覚しながら制度的にスタンダードと想定されている生き方を維持する虚しさと相似である。あほくさ。
コロナ禍に刻み付けられた政治不信は、生活への自閉にますます拍車をかけたといっていいが、そのような自閉はかえって現状肯定としての身振りに重なってしまうというジレンマに耐え切れず、ずいぶんな不感症に陥っている。緊急事態宣言下に昇進したのも大きい。生活不安と政治不信の高まる中、物質的窮乏からはやや距離をとることができるだけの収入を得てしまった。政府や企業への不信と恩恵とを同時に被ったことによる失語。そこからいまだに立ち直れた気がしない。昇進前に書いた『会社員の哲学』は、すでにどこか遠い感覚があるが、多くの問題はまだあそこにあるはずで、僕個人がそこから遠ざかったところで解消はされていない。それにもかかわらず、この立場からはもう言えないようなことが増えてきている。それでも言うべきであろうが、言い方は変わる。外山恒一は人を政治に駆り立てるのは正義感か被害者意識かのいずれかであると書いているが、僕は常に恵まれた立場にあって、だからこそ前者によって書いているつもりでいたが、じっさいは常に後者を燃料にしていたし、読み手として想定している人たちとの経路として共有しうる当事者意識を少なからず活用していたことは間違いない。いま、これまで頼りにしてきた共同体意識から自身が乖離してしまったこと、あるいは、そもそもそうした共同体自体がひとりよがりな勘違いであったことを自覚してしまったことへの混乱のさなかにあるのだと思う。僕はどんな感じで、どのような人たちと言葉を共有しようと思ってたんだっけ。宛先も声音もブレにブレている。ここがはっきりしていれば、Twitter だろうがX だろうが使い倒していたことだろう。それは手段に過ぎないのだから。だから問題はやはり、内在的なものだ。僕が僕を見失い始めている。柿内正午という役をつくりあげ、それが自走し始めたところで倦んでくる。五月病のようなものだ。『政治運動入門』に即していうならば、芸術と政治と学問の三竦みがうまく機能しなくなっているというか、機能しすぎてマジで竦んでしまっているというか、そもそも自分はこの三項をどのような配分でどのようなスタンスでやっていくんだっけ?というのがさっぱりわからなくなっている。ひょええ、だ。
自作の本のうち、『『ベイブ』論』以降めっきり営業が下手になっているのは、インボイス制度へのわけわからんさだったり、とにかく制度によって委縮させられているところがかなり大きく、端的にめちゃ腹立つ。そうでした。腹立ってたんだった。そのあたりのことを和田靜香や外山恒一の本を読みながら思い出していって、見晴らしをひらいていって、ようやく回復の兆しが見えてきたような気がしている。なんの不満もなくぼんやりしているという段階はじわじわ消耗していってやばくて、は?まじなんなの?と憤りが沸き上がってきてようやく健康が近づいてくる。憤りの火を絶やさず、それでもなお日々をにこにこやっていくこと。それをやろう。ずっとそう言い聞かせてきたじゃないか。何度も見失い何度も発見しながら、多少でもマシになっていけばいいのだが、マシになっているとは思えないのが悲しいところだ。
なんだろうな、こうして書いていくと絶不調であることが如実にわかる! 大阪での青木さんとのイベントでは、このあたりをぶちぶち話したり話さなかったりしながらだんだん元気になっていくといいなと思う。人としゃべって外向きになる必要がありそう。人格の換気が必要。しかし、引越しというでかい空気の入れ替えが待ち構えているわけで、そのストレスの予期によって余裕が削られているという面も大きいだろうし、であれば換気はむしろ控えるべきなのか? もうなんにもわかんないな。堂々巡りだ。巡っていればまだいいほうで、血流のよくなさを実感する日々でもあるよ。休んだほうがいいな。休むって何? 大阪が楽しみなのは、おそらくひとりでぶらぶらするというだけのことをするつもりだからだ。そうやってぼけーっと過ごしたい。そのためには生活圏を抜けてみるのが大事な気がしている。
