2024.08.18

そこそこ酔っぱらっていたはずだけれど、きちんと早起き。電車に乗ってえっちら神保町。調子に乗ってコーヒースタンドで本を読んでいたら遅刻した。非哲学者による非哲学者のための哲学入門読書会。この会に出るようになって気がつけば一年をとっくに過ぎている。いまだレジュメを切らないなど不真面目極まりないが、毎回きちんとレジュメを提出している受講生の方々がめきめき力をつけているのを見ていると、やはりやらねばなと思う。このようなその日限りの改心をもう一年も続けているわけだ。頭を使うな。推し量るな。とにかく手を動かせ。それが考えるということだ。この読書会にある態度を乱暴に一面的に語るのならばそのようなものであるのだから、レジュメを自作しなければあまり意味がない。とはいえ不真面目にでも参加していると得るものは多くあって、たとえば読書にまつわる自明でありながら忘れがちなあれこれを、忘れないでいられる時間がどんどんと長くなっていく。

ここでいう自明のこととは主にふたつ。ひとつめ。この世に自分のために書かれた本などない。ふたつめ。本は伝達したい内容があって書かれるが、その内容を制作者側が事前にすべて言語化できているわけではない。

第一の事実は、自身の生活感覚に引き付けることなく、虚心坦懐に文書に即して読むことを促す。読み手だけが知っていること、たとえば個人的な興味や信念に即して本を読んではいけないのだ。なぜなら、それらは書き手が感知できるはずもないもので、書き手には書き手の事情や目論見がある。読むとは、まず何より書き手のめざすものの検討をつけ、その目的について成否を問うことであり、読む側の期待に対してどれだけ応えてくれたかという判断はナンセンスないちゃもんに過ぎない。書き手と読み手がお互いに共有可能であろうと期待できる語法、語彙、文法、基礎知識のみを用いて本を読むこと。そのように読んで初めて、自分の思いもよらなかったことを思い、考えもしなかったことを考えるように本を読むことができる。読まなければ知りも考えもしなかったことを知ったり考えるための補助具、それが本。

第二の事実は、まずは速度をつけてざっと一望するように読む、それから詳細に読んでいくという方法を励ます。まず普段の会話からしてそうだが、発言者はまずぱっと全体を一望するように、これはたぶん着地するだろうなと直感して話し出すものだ。そういうとき、たしかにぼんやりと議論の大枠は把握されているのだが、逐一言語化されているわけではないので、途中の合いの手や横槍に対応しているうちに、細部の言い回しや定義に足をとられ、はじめの直観に反して話の筋は折れ曲がり絡み合い、結局よくわからないところで途絶えてしまうこともしばしばだ。うまくいくときも、一語一語の配置は話しながら組み立てているわけで、瞬間に把握した全体像を、共有可能な形に構築するためには一語一語組み立てる必要があるのは変わらない。そしてこの組み立ては、全体をぱっとつかむ時間に比べてはるかに時間と手間がかかるために、はじめに確信された図をきちんと再現できる可能性は極めて低い。ある種の文書の制作というのも似たようなもので、まずはじめに閃かれた設計図に対して、一語一語を積み上げていくその時間のなかで刻一刻と変容していくコンディションの影響をどれだけ抑えて忠実でいられるかが問われている。読む側は、まず一語一語を拾うことでしか読んでいけないので、書き手とは逆に、読みながらじわじわと全体像を組み上げていくというのがよくある読書なのだが、これも読んでいるうちに最初のほうを忘れ、結局は部分部分への注意だけが散発的に喚起され、読み終えても何が何だったのかさっぱりわからない、といった結果になることも少なくない。先にざっと全体に目を通してしまうことで、書く側の計画と実行の距離をあるていど感覚することができる。まずざっくり掴む。そのうえで、なるべく零さないように最初から最後まで制作していく手つきをなぞる。

特にこの第二の事実は、この日記やエッセイがそうであるように、とにかく内容も決めないまま開始する書く時間のなかで、書かれつつある文字との相互作用として起こるものをラフに記録するというような、書かれる文字に徹底して受動的である即興のようなスタイルとはまったく別のものとしてテキストを想定するということで、僕にとっては非常に新鮮というか、それで何が楽しいの?というような態度だったのだが、この読み方を訓練することで楽しく読める本の幅が格段に広がったのだから、やはり楽しさに奉仕している。それはそうだ。ここで重要なのは、じっさいのところ当の書き手が全体像や目的地をどれだけ強く確信していたのかという事実はどうでもよく、いま読もうとしている文書が構造としてどのような意図をもっているかのように機能しているかということさえ把握できればいいということだ。けっきょく、第一の自明さも第二のそれも、文書に即して読むという一言に還元できるものであるだろう。

読書会後の懇親会はいつもの中華。今日のお昼はよだれ鶏とうきうき心に決めていた。おいしい。東京堂をひやかし、三省堂でネルソン・グッドマン『世界制作の方法』を買う。奥さんと合流場所を相談し、ついでというにはすこし便が悪そうだなと思い提案を悩んでいたら奥さんからも同じリンクが送られてきたのでそれなら行こうと、四谷に向かう。アートコンプレックスセンターでプロレス芸術祭。プロレスにまつわる雑貨や美術の展示販売。長らくインスタでいいなと思っていたslowth の作品が売っていて、ついつい買ってしまう。プロレスラーがUFОに吸い込まれていく刺繍の入ったサコッシュ。ほかにもかわいいキャップなど物欲をくすぐられた。YOHとマスター・ワトの魚拓があった。でかいな、と思う。奥さんとは会場で合流し、三周目くらいの各ブースを巡る。奥さんはあっさりと見終えて、駅前の蕎麦屋で腹ごしらえ。

丸の内線で銀座まで出て、地下道で一駅ぶん歩いて歌舞伎座へ。幕見席を奥さんがゲットしてくれたので、京極夏彦作の新作「狐花」を観に来た。歌舞伎座は改装以来はじめてかもしれない。久しぶりの歌舞伎。幕見席でもわくわくする。平易な口語で、歌舞伎の雰囲気はやや物足りないが、わりとしっかり百鬼夜行シリーズの憑き物落としの構成をそのまま板に上げていて驚いた。過剰に酷い話を盛り込むなど、ホンとしての外連味も充分なのだが、肝心の中禅寺の長口舌が食い足りない印象。ただ説明臭い長台詞として間延びしてしまうのが惜しかった。百鬼夜行シリーズにおける中禅寺とはもちろん世代が違うのだけれど、それでも同一視して差し支えなさそうな構成だからあえて同一視して話をするが、このシリーズの正体は異世界転移ものにおける、中世っぽい世間で現代の知識体系を用いて無双する、という形式そのものだ。つまり、昭和前期の知的錯綜が幻視する謎=怪異を、ポストモダン的アプローチで快刀乱麻を断っていくのが中禅寺なわけだ。前近代と近代がごった煮になっている状況に対し、そのどちらをも相対化する知的態度で展望をもたらしている中禅寺を、近世という前近代を主な居所とする歌舞伎世界に置くことで何が起こるか。それはおそらく、近世において異質な近代人でありながら、その近代をも相対化するなかなか奇天烈な異人であるはずで、しかもその所作は歌舞伎という擬製された近世によってなされる。そのような捻りが面白どころだろうと見当をつけていたのだけれど、どうにもそのような松本幸四郎の中禅寺はベタに人情の人で、異物感にも説得力に欠ける。極悪人を演じる中村勘九郎の唯物論者っぷりこそ中禅寺的で、クライマックスにおいてこの唯物論者にいかに呪をかけるのかというのが見どころになるべきなのだが、どうしても勘九郎のほうが最後まで知的能力においても強そうなのが残念だ。とはいえ、おおむね楽しく観た。もっと歌舞伎らしい歌舞伎もみたいな、と思う。歌舞伎座、通いたい。

深夜に帰宅して夜食を食べて、今夜決勝戦だったG1の、まずは準決勝を観てから寝る。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。