2025.09.15

朝起きるとふだんは脛のあたりで寝ているルドンが、珍しく上半身にぴったりと寄り添うようにして眠っていたので、嬉しくなりそっと抱きながらうとうとしていると、キュートな毛むくじゃらの温かさに誘われてずいぶん深い眠りに落ちた。遅刻だ。

通勤電車では『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』。序文を読んで、せっかちに第三部から読み始める。作品論の手前で引き返して第一部から読み直すつもりだった。帯文にある〈「韻踏み夫」がついに本名で世に問う〉とはどういうことか。それはこの本に託された中村拓哉の一人称と踏む「私」たちもまた「韻踏み夫」なのだということではないか。なんだそれは。どういうことか。誰しもがつねにすでに「韻踏み夫」であったということについて、以下、もうちょっと丁寧に考えていきたい。『随風』でやっているエッセイ/随筆を批評しようという試みを、僕は「おしゃべり」という概念でやっていこうとしているが、中村の「韻を踏む」という概念は、僕の「おしゃべり」論にもかなり使えるもののように予感しているから。

第三部で行われる、『新たな距離』で山本浩貴が提示するテキストの奥/表層/手前という議論の敷衍がよかった。まず、前の二つを、奥にある主題への画一化、奥側の主題によって抑圧される個別性を解放するための表層への注意、というような流れとして整理したうえで、山本のいう「手前側の生のリテラリズム」を、個を全体へと回収する奥への回帰でもなく、際限ない表層の差異化の野放図でもない、具体的な個と個の関係の場として再提示してみせる。これはとても触発される論の立て方だと思った。

一般的によくある見立てとして、普遍が個別性を抑圧する近代というのがあって、近代を相対化し個別性を際立たせるポストモダンが次にある。ポストモダンの起点にあったのは、全体からの個別的なものを解放する意思だったかもしれない。けれども、奥にあるとされた普遍を追い求めることを止めて、自らの方法を突き詰めていくうちに、表層の差異へと無限後退していく隘路に陥り、不健康に狭苦しく自閉し、他者との摩擦ある関係に対して不能になってしまった。もはやポストモダンも行き着くところまで行き着いたいま、これからは、あらためて他者と関係する方途を探らなければならない。そういう状況判断がある。

山本は、奥に隠されている「私」が同一化するべき全体を導出するような解釈をほどこすものでもなく、表層にある「私」の差異をきめ細やかに考察するものでもなく、「〈私+環境〉のレイアウト」としてテキストを捉える。どういうことか。読者は、テキストを読むとき、どうしたってそれを書いた人間的な「私」を読み取ってしまうものだ。テキストは、それが書かれた環境と、その環境下でテキストを書く「私」とが、同一平面上に文字情報として配置されたものとして読者に感受される。「レイアウト」の構成要素として「私」を感知する読者は、その「私」を成り立たせている「環境」とも同時に対峙している。書く「私」を成立させる「環境」に、読む「私」として巻き込まれていくこと。そのようにして、読む「私」は書く「私」と同様に、テキストに触発されて変容していくことができる。ここに関係の可能性がひらかれている。

山本の「環境」を展開させて、中村はこれを「状況」へと変形させる。「状況」とは、物語化がなされ、意味が生まれる場である。ひとは状況に置かれて行動する。これを筋立てて物語ると意味になる。意味は、テクストの奥に固定的に実在するものではなかった。かといって、そんなものはないと表層に耽溺していてもどうにもならなかった。

不朽の普遍ではなく、完全に存在しないものでもないものとしての意味。それは、個別具体的な他者関係ごとに仮設される共通了解のようなものであろう。中村はこの共通了解を韻と名指し、押韻という「状況」の制作によって共に作り作り替えられる「私」たちのカップリングが生成されるさまを示唆する。

意味を、周囲につど仮設的に創発されるものと捉える。そのとき、読む「私」はどう振る舞えばいいのだろうか。超越的に書く「私」と普遍において同一化することを志向するのでもない。同じく超越的に書く「私」に外在するのでもない。書く「私」と共に内在し「状況」のただなかに身を置くのである。

ここでいう「状況」という語彙の調達元であるリクールは、「解釈」を「説明」と「了解」の弁証法であるとしたらしい。自然科学的認識を納得させる「説明」と、個体としての感性的把握である「了解」。「解釈」にはこの二面性がある。テクストを他者として自らから分離し、理性的に精読するのは「説明」であり、これだけでは片手落ちなのである。

押韻とは、テクスト世界の「状況」へと自らを投げ出すことで「了解」するための技術である。奥でも表層でもない。表層に書かれた〈「私」+状況〉と、それを読む手前側の「私」とが韻を踏んでいる。そのようにして手前側の「私」である読者は、固別性を保持したままに、他者と同じ韻のもとに出会い、「了解」する。精読的な「説明」とはちがって、読者はテキストを「了解」することを通じて自分自身をも「了解」することになる。誰かのおしゃべりに誠実に向かい合った結果、そういえば私は、と、いつのまにか自分語りが触発されてしまっている。そのような巻き込まれが押韻という「状況」である。理性的な全体化でもなく、理性を相対化する差異化でもない、対象と共にありつつ絶対的な個としての「了解」を証立てる中性的な状態を中村は〈テクスト世界の解釈を通した生の押韻〉と端的に美しく表現している。

さて、すでに直前の段落にこっそり忍び込ませているが、改めて牽強付会していくならば、つまり解釈の「了解」の側面とは、「おしゃべり」であり、押韻とは「おしゃべり」の条件なのである。まるきり同一化できるわけではない「私たち」が、同じ韻で踏むことでコミュニケートする。それが大事なんじゃないかしら。みたいなことを、『繰り返し首を縦に振ること』をちゃんと通読したうえで『随風』で整理していきたい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。