2026.07.01

土田のド・マン解説本を読んでいて、脱構築批評のなんたるかもなんもわからないまま格好つけて『盲目と洞察』を手に取った大学生の僕は、ほとんど読めていなかったくせにわりあい芯を捉えていたのだなというか、目が滑っただけのようだったド・マンの本から受け取ったものがあんがい今の態度を定めているようなところもあり、こういう読めていないくせに雰囲気でなんかけっこうちゃんと受け取っちゃうというのが僕はかなり大事なことのように思う。というか大学のころの僕はデリダや柄谷行人をすっとばしていきなり装丁とタイトルに惹かれてド・マンに行ったり、初のドゥルーズも古本で安かった『襞』だったり、もちろん歯が立つわけもなく、でもなんか興奮していた、みたいな感じで読書体験自体が微妙にズレているというか、体系も何もあったもんじゃなく目についたものにふらふら飛びついているだけで、バイヤールがいうようなざっくり主流とされているテキスト間のネットワークに無頓着なまま碌に読めてもいない一冊一冊について堂々と語っている。間違った、恥ずかしいやつだ、という自覚はまあずっとある。この数年でようやくたとえば「内在」とか「超越」というのがどのようなコンテクストのもとで動作する語なのかわかるようになって、こうなると、なんだそんな話だったの、と拍子抜けするような本が増える。小学生の頃に読んでいた京極夏彦のなんかすごそうだったところがだいたい全部セックスの話でしかなかったことに大人になってから気が付くようなもので、なんかわかんないけど格好よい感じがして深そうで体がうずうずする、みたいな、何もわかっていないくせに何かをわかってしまっているような読書はだんだん減っていき、既知のものたちのネットワーク上に配置していくような読書が増えていく。それこそが読めているということではある。でも、自分のネットワーク上にどう位置付けていいかさっぱりわからないものを、字義的に受け取ったり、比喩的に受け取ったりすることで全体が組み変わっていく予感に震えるような愉悦のほうが、ちゃんと読めているかよりもずっと重要な気がする。勘違いでもなんでもいいから、なんかすごそうな幻想を抱いてしまうこと。言語化できない忘我の領域を直観してしまうこと。そういう事態を引き起こす文字列として難しい本を読む。お利口に読むのではなく乱暴にいじりまわして遊ぶ。そういう読み方を意識的に取り戻したほうがいいのかもしれない。いい加減な陰謀論者のように読む。せっかちに話半分で感動する。早とちりで思い込む。どうせそのようにしかできない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。