柏のシネコンで『急に具合が悪くなる』を見る。予告編で流れるのは『キングダム』だったり『オークストリートの異変』だったりで、隣のお兄さんは予告の時点ですでにちゃんと座っていられないタイプ。わりあい埋まっている劇場全体としてもかなり注意力は散漫で、こんなところにうっかり届いちゃうのってすごいよな、と思う。面白くはなかった、というか、多くの人にとって面白くはないよな、というのを感受できる環境で見たのだからそれはそうで、じっさいのところこれは僕のような人間に調律されているだけで、実態としてはちょっと前なら土屋太鳳や今なら福原遥、出口夏希とかが出ているようなティーン向けラブストーリーみたいなものなのだから、面白くないわけはないのだが。出口夏希は精一杯キャッチアップしたふうにして出してきた名前だが、彼女の主演する『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』は二〇二四年の映画だそうで、もう遅いのかもしれない。ともかく、『急に具合が悪くなる』は、二〇一〇年代後半に人文系の流行本を読んできた人間にとっては垂涎の『余裕がなくてバーンアウト一歩手前の私が、余命いくばくもない君と出会った話。』である。『Hedwig and the Angry Inch』では否定神学的にしか語られない失われた半身のような運命の相手に出会えてしまう甘いファンタジー。そう、お互いの母語に通じた異国のあなたは、まるで私自身のようなのだ。人類学や哲学の知識を背景に、資本主義について夜通し真剣に語り合うことだってできる。演技とユマニチュードの相似をいわずもがなの必然のように扱い、お互いの職能は主人公の職場で溶け合うようにして発揮される。
そのような甘ったるさにうっとりするような人もいるだろう。けれども僕がティーン向けの恋愛映画を粗製濫造の駄菓子のようなものとして見る目の反転したものとして白けた態度を返すだけの人もたくさんいる。隣のお兄さんは靴を脱いで座面に体育座りして、また靴を履いて伸びをして、シーンが切り替わるたびにまだ続くのかとため息をつき、それでも辛抱強く三時間付き合い、しかしいちばんの見せ場でトイレに立ってしまうし、最後の十五分はもういいやと出ていってしまう。余命もののサスペンスとは「いつ死ぬか」であって、それが終わってしまえばもう席に縛り付けるものはないということなのだろう。あまりにも不幸な出会いすぎて笑ってしまうし、それでも三時間は耐えようとしたんだな、黙って席についていなければいけないという権威だか強制力だかがまだ映画にはあるんだなというのが頼もしかった。というか彼の反応は劇中劇の智樹の役割と同じ効果を及ぼしていた。いっそのこと観客みなに楽器を配ればよかった。エンドロールが終わる前のまだ暗い階段をゆっくりゆっくり降りる老夫婦こそ劇的に思えたから。内と外を分ける境界線を撹乱するというのは、このような映画がシネコンでかかり、ふだんは見ないような人たちがうっかり見てしまうということにこそ賭けられているのかもしれない。この映画はそういう人が「面白い!」と思えるような瞬間にあまりに禁欲的に乏しいような印象を受けたのが引っかかった。映画の時間感覚とは点であり、一瞬一瞬の鮮やかさに驚くようなショットが打たれ、しかしそれが線状に配置されることでかろうじて形が保たれているというようなものだと思う。それにしてはあまりにも線状の配置の力が勝ちすぎている。しかしそれもまた、この映画自体が実生活でのショット的瞬間を捉えるための準備としてあったということでいいのかもしれないが、たぶんあのお兄さんはまったく準備できないまま、ぼんやりと研修を拒否したい気分だけを得たとしか思えない。僕はいつも濱口監督作は構図の意図的な退屈さがあまり好きではない。被写体間で起こる「ほんとう」にあまりに多くのものを託しすぎている。それはユマニチュードに多くを賭けすぎているマリー=ルーとも重なるし、演劇の一回性にたいしてあまりに無防備な真理の無頓着さとも重なる。でもたぶんそれでいいのだ。この映画は『余裕がなくてバーンアウト一歩手前の私が、余命いくばくもない君と出会った話。』としてとびきりロマンティックなのである。話が通じる知的な人たち同士で夢中になり、とびきりの閉域をつくりだす。そのうえで、そのような閉域は外へとひらかれていく可能性を持っていると夢見させてくれる。わたしたちのロマンティックは足裏マッサージを通じて誰にだってひらかれている! 恋愛が世界に直で接続されるセカイ系のような快楽。夢物語として非常に美しいし、恋愛映画というのはどうあれ二人以外の人間に対して排他的であるものだ。ロマンティックじゃないひとはこの映画には必要ない、という割り切りこそがこの映画の美徳だ。そしてだからこそ、単なる恋のスパイスとしかならない障害として配役されたソフィーによってもたらされるノイズが、スパイス以上のリアリティをもって差し迫ってくるところにこそ唯一実際的な可能性が宿っているように思えてならない。『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』にも『余裕がなくてバーンアウト一歩手前の私が、余命いくばくもない君と出会った話。』にもノれない人たちに残されているのは、点で見たら清でも濁でもあるような現実を併せ飲みながらも矜持を失わず淡々と働くという、まったく映画的ではない地味さで線的な時間を歩んでいくことなのだろう。
