2026.07.14

横山三国志を図書館で借りて読み始めた。面白い。あまりつぎつぎと突然のことがおこりどうお答えしてよいかわかりません。

並行して今日は『オカルト番組はなぜ消えたのか』を読む。テレビ放送開始以来、放送局は非同期的マスコミュニケーションの宛先として同質性の高い〈常識〉をもつ〈視聴者共同体〉を想定していた。それは、一家団欒の急進的装置としてのテレビという前提に基づいている。つまり、〈視聴者共同体〉とはテレビの前でこれは違うだのこれは結構だのと評価をくだすことで共同するひとらが教育されていくものであったのだが、オカルト番組が成立した七〇年代末の時点で進行していた一世帯でのテレビの複数所有によって実現した個別視聴が〈視聴者共同体〉をすでに変質させていた。

家族と一緒に「お座興程度」の「お遊び」として消費されていた見世物が、個室で視聴する経験を通じて「シャレ」のわからない視聴者が台頭してくる。それは同時期に日本においてニューサイエンスとして花開いた「精神世界」とも結託し、徐々に虚実皮膜に遊ぶ粋な〈信じられ方〉が野暮なシリアスへと転じていくことで、スピリチュアルブームへと横滑りしていく。宜保愛子のオカルトから江原啓之のスピリチュアルへ。浮薄なエンターテイメントから感動の奇跡体験へ。

二〇〇〇年代に至って、無責任な視聴者による半信半疑から、シリアスな観客による共感と反感の二極化へと事態は変容してしまう。七〇年代の黎明期にはかろうじて「こんなもん信じるわけないだろ」というのが〈常識〉として〈視聴者共同体〉に託されていたわけだが、ブームの過熱化によって「実際に信じてしまう人もいる」という事実が顕在化してくる。さらには外から批判がなされることによって、はじめは「こんなもん信じるわけないだろ」という〈常識〉との両論併記でオカルトを娯楽化していった放送局側が、〈常識〉のアウトソーシングを進め、内部での自己言及的なツッコミを放棄してしまう。内省的な態度が失効した制作サイドはとうとうスピリチュアルという信じてしまう観客だけを相手にするビジネスへと行きつき、批判的な〈常識〉を有する視聴者(「見物人」)という基盤を失ったオカルト番組は終焉を迎えるほかなくなった。

僕はオカルトが好きだけれど、現実を相対化して遊ぶためには現実が強固なものとして信じられていなければならない。そのような現実の強固さへの信こそ〈常識〉である。ポスト・トゥルースという言葉の流行する時代を経て失われたものは、〈常識〉だけではない、むしろオカルトの遊戯性が成立しなくなってしまったことの方こそ嘆かわしい。構築的なもの(ルビ:フィクション)に半身で半笑いで真剣に遊ぶこと。全身全霊の感動ではない形で「謎」を探求する「ロマン」を維持するためには、確固たる〈常識〉を確保しなければならないのである。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。