余裕がなくてできていなかった発送メールを各店にする。返信でちょうど届きましたよという報告が相次ぐ。メールを作りながらポッドキャストを聴いていた。
「Image Cast」の工藤さんゲスト回で出た法人という発明の偉大さの話は、「勝手に”ドキュメント72時間”をしゃべるラジオ」で鮫君が語っていた「キャラ・関係消費を引き受ける」「纏う」話とはなんとなく気分を共有している感じがする。つまり、フィクショナルに作り込んだ擬似人格をかませることで、それが本体である人間と社会との間にはさまる絶縁体として機能するみたいな話として聞いていた。
「働き者ラジオ」の理論と実感の話を聞いていて連想したこととして、僕は理論でも実感でもない位相で生活を書きたい。
雑な状況論として、LLMによって個人の実感とされていたものも計算可能なものだということが露わになっているけれど、これはもともとSNSによる疑似活字の生産が「民主化」以降、誰かによって言語化済みのものをそのまま自分の実感として流用してしまうところから準備されていた事態だともいえる。このような状況にある生活者にとって、実感と理論の語り方の区別があまり明確ではなくなってしまったようなところがあるのではないか。
全体最適を求める理論にとって、個人の生活など関係ない。なので個人の「損してる」という実際を看過する面があるわけだけれど、理論的に正しいから実感としてもそうであるべきみたいなねじれが起きている。あるいは逆に、単なる実感を理論上も肯定できるものとして錯覚しやすくもなっている。書き言葉の、とくに非手書き文字の性質上、ある一人称の語りはすぐさま非人称的な記述へと変質し、固有性よりも匿名性を強く帯びて流通してしまう。
個人の生活にとって、全体の効率とか知ったことではなく僕が楽しければそれでいいのだが、僕が楽しいためには全体もいい感じであってもらった方がよく、実感か理論かの二項対立で考えるその考え方自体が馴染まない。理論っぽくもなく実感っぽくもない、よくわからない書き方でどれだけ日記を書けるか。納得も共感もないような怪文書としての生活をうっすら持ち続けること。
