2026.07.27

きのうから安藤礼二『空海』を読み始めて、奥さんがFF5を進めているあいだにがしがし読んでいく。これまでも何度か仏教や儒教の魔改造の結果できあがる日本思想史については読んできたはずなのだが、毎回きれいに忘れてしまう。ともかく前提となる世界観や論理構造、梵語や漢語がごたまぜになった語彙に馴染めず、まったく定着しない。それでも読んでいるうちは面白い。

《西田幾多郎にいたるまで日本哲学を呪縛することになるこのマジカルワード》。僕はこれを『鋼の錬金術師』の「一は全 全は一」で知るわけだけれど、おかげでこの辺りのイメージはしやすい。法蔵につづく華厳宗第四祖の澄観は、このような重重帝網のイメージから如来の「無限」を論理化する。それは禅へと発展していくような言葉にし得ないものとしての「無限」であった。

空海は、重重帝網のイメージを華厳と共有しつつ、「空」(無限、如来)と「色」(有限、人間)が、大海と表面の波のような関係として自閉しているというだけでは、無限の可能性を秘めた内在から一歩も外に出ることはできないと考え、「空」への超越を志向する——正確には超越と内在のあいだに「空」はあるようなのだが——ことで袂を分かつ。それでは、すでに多である一を切り裂き、その裂け目から外部へと向かうような契機はどこにあるのか。それこそが言葉であるのだと安藤の空海はいう。

なんかすごく面白い気がする! 仏教における「縁」というのはフランス現代思想の「構造」みたいなものなんじゃないかと睨んでいるのだけれど、これがある程度妥当だとすれば、悟りとは構造からいかに抜け出すみたいなことなんじゃないか。で、華厳はそのような悟りを「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」としたし、禅に至って「だから黙って観想したり座ったりしとけ」となっていくけれど、空海はむしろ言葉の脱構築によって内在しながらの超越を目指したということなのではないか。つまり、前者は言葉からの超越を志向し、後者は言葉による超越を志向した。空海にとって言語とは、《われわれ衆生にとってその外部に存在しているだけでなく、如来つまりは法身にとっても、われわれと同様、その外部に存在している》ものだから、そこにこそ人間と如来とを媒介する《裂け目》となりうる。

いや、あんまわかってない。けっこう根詰めて、奥さんは第二の石板をゲットし、僕はこの辺まで読んだ。ちょっと西洋近代で口直しがしたくて久しぶりに松浦寿輝『エッフェル塔試論』を数ページ読んで、こってりしたあとのシャーベットのようなうれしさを感じる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。