きのうから安藤礼二『空海』を読み始めて、奥さんがFF5を進めているあいだにがしがし読んでいく。これまでも何度か仏教や儒教の魔改造の結果できあがる日本思想史については読んできたはずなのだが、毎回きれいに忘れてしまう。ともかく前提となる世界観や論理構造、梵語や漢語がごたまぜになった語彙に馴染めず、まったく定着しない。それでも読んでいるうちは面白い。
『華厳五教章』に戻る。法蔵は続けていく。「一」があらわれる際に「十」はあらわれないが、「一」はそのままで「十」である。「十」があらわれる際に「一」はあらわれないが、「十」はそのままで「一」である。「一」のなかには「十」が含まれており、「十」のなかには「一」が含まれている。そうした事態は、「識」と「空」が和合し、「事」と「理」が和合し、「種子」(因)と「現行」(果)が相即相入の関係に入ることで可能となる。それゆえに、部分は全体と等しくなり、全体は部分のなかに顕現する。一はそのまま多となり、多はそのままーとなる。一即多にして多即一である(近代の西田幾多郎にいたるまで日本哲学を呪縛することになるこのマジカルワードの直接の起源がここにある)。(…)
安藤礼二『空海』(講談社)p.161
《西田幾多郎にいたるまで日本哲学を呪縛することになるこのマジカルワード》。僕はこれを『鋼の錬金術師』の「一は全 全は一」で知るわけだけれど、おかげでこの辺りのイメージはしやすい。法蔵につづく華厳宗第四祖の澄観は、このような重重帝網のイメージから如来の「無限」を論理化する。それは禅へと発展していくような言葉にし得ないものとしての「無限」であった。
空海は、重重帝網のイメージを華厳と共有しつつ、「空」(無限、如来)と「色」(有限、人間)が、大海と表面の波のような関係として自閉しているというだけでは、無限の可能性を秘めた内在から一歩も外に出ることはできないと考え、「空」への超越を志向する——正確には超越と内在のあいだに「空」はあるようなのだが——ことで袂を分かつ。それでは、すでに多である一を切り裂き、その裂け目から外部へと向かうような契機はどこにあるのか。それこそが言葉であるのだと安藤の空海はいう。
空海は、ここで大変興味深い見解を披露してくれている。「文字」はわれわれ衆生にとってその外部に存在しているだけでなく、如来つまりは法身にとっても、われわれと同様、その外部に存在しているというのである。事実、言葉とは内部の息を、外部と内部の境界に位置する口唇を通して、外部に出さなければ発せられないものであるし、そうして他者から発せられた言葉はつねに例外なく、外部からわれわれに訪れてその意味を伝えてくれるのである。われわれは他者から発せられ、外部から訪れる言葉を受け取ることしかできないのだ。つまり、「文字」は、われわれ生にとっても如来にとっても、内在的な閉鎖を破壊してしまうものとして存在していたのである。「観」が内への閉鎖であったとしたのなら、「言」は未知なる外への解放であった。未知なる外への裂け目でもあった。その裂け目である「言」を通して、「言」とともにあり、「言」をともに読み解き、「言」をともに語ることによって、無限の如来である法身と有限の楽生であるわれわれは、はじめて真の意味で出会えるのである。「言」は法身と衆生を、「空」と「色」を、外部と内部を、「即」という形で一つに結び合わせるものだった。「法身」から「言」(真言)が生み落とされるのではなく、「言」からこそ「法身」が生み落とされるのだ。空海は、同じこの『梵字悉曇字母并釈義』のなかで、しばらく後にも同様の見解を繰り返している。つまり、そうした事実は、空海にとって絶対に譲ることのできないものであった——。
同書 p.191
なんかすごく面白い気がする! 仏教における「縁」というのはフランス現代思想の「構造」みたいなものなんじゃないかと睨んでいるのだけれど、これがある程度妥当だとすれば、悟りとは構造からいかに抜け出すみたいなことなんじゃないか。で、華厳はそのような悟りを「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」としたし、禅に至って「だから黙って観想したり座ったりしとけ」となっていくけれど、空海はむしろ言葉の脱構築によって内在しながらの超越を目指したということなのではないか。つまり、前者は言葉からの超越を志向し、後者は言葉による超越を志向した。空海にとって言語とは、《われわれ衆生にとってその外部に存在しているだけでなく、如来つまりは法身にとっても、われわれと同様、その外部に存在している》ものだから、そこにこそ人間と如来とを媒介する《裂け目》となりうる。
いや、あんまわかってない。けっこう根詰めて、奥さんは第二の石板をゲットし、僕はこの辺まで読んだ。ちょっと西洋近代で口直しがしたくて久しぶりに松浦寿輝『エッフェル塔試論』を数ページ読んで、こってりしたあとのシャーベットのようなうれしさを感じる。
