2026.07.28

批評家、作家、編集者としての空海を描き出していく批評本『空海』を面白く読みながら、しかし宗教者としてはわけわからんな、そもそもどのへんが仏教なんだ?と思わなくもない。わからん単語は『岩波哲学・思想辞典』をひくとけっこう当たれてよくわかった気になれた。いちど大元に立ち返って頭を整理しようと魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』を読み返す。原始仏教はよくわかったような気がするし、その後の大乗への発展の理路もわからなくはないのだが、空海の仏教的内実というものは依然わからんような気もすると思って『空海』に戻ると、《空海の金剛乗は、釈尊の仏教の否定の上に成り立つものであった1》とあって、そっかあ!となった。釈尊=ゴータマ・ブッダの系譜に直線的に置こうとするからしっくりこなかったのだ。《(…)空海にとっての「真言」とは、人間的な釈尊ではなく、超人間的な法身が自発的に、自らの悦びとともに説いたものでなければならなかった(…)空海にとって、人間的な釈尊とは、時間と空間の制限を乗り越えた法身ではなく、時間と空間に限定された応身に過ぎなかった》。応身というのは具体的で固有の物質的身体のことで、無限の法身と区別される。空海は、如来の言葉と身体を、人間的な主体からではなく、超人間的な主体において理解する。だから最澄と同じく『大日経』を重視しながらも、それとの統合は釈尊の『法華経』ではなく——空海にとって釈尊はあくまで個別の具体例にすぎない——如来の発生そのものを描いた『金剛頂経』でなくてはならなかった。

金剛乗というのは八世紀以降、インドで仏教が滅亡するまでのあいだ流行した思想で、唐代に不空が漢訳し、中国にもたらしたものであるそうだ。この不空というのがサマルカンドの出であり、ソグド人のバックボーンには三夷教すなわりゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、マニ教からの影響が色濃かった。ここに、中国へのローカライズのために語彙やイメージを援用した道教・儒教が加わったものが、空海の思想的源泉のひとつとなっていく。

国家の中枢での仏教解釈は、護国思想としての色彩を強めていく。さらには同じソグド人による唐への反乱——安禄山の乱——への対処として、三夷教を背景としつつも三夷教に優越するものとして仏教を構築し直す必要にも迫られていた。

不空らが金剛乗とは、欲望の禁止ではなく開放によって自らに内在する《森羅万象あらゆるものの「源」となる一にして永遠の存在、一にして無限の存在2》への生成を志向する。一種の超越の否定であった。そのような否定は、皇帝の権力の絶対化を抑制し、他民族国家の平等をいうものでなければならないという要請によってなされている。《不空の金剛乗によって守られるべき国は、単一民族による「国家」ではなかった。多民族による、マイノリティたちによる「帝国」であった。皇帝のもつ権力をその極限まで解放しながら、しかも皇帝をそのなかに含む帝国のあらゆる臣民、あらゆるマイノリティでもある帝国民すべてに平等に仏と成る道、救いを得る道を示すものでなければならなかった(…)3》のである。

日本においてこの流れを引き受けた空海の思想は、おそらく現代日本の思考の形式をも規定することになる。ラディカルな個人の垂直的な超越ではなく、皇帝を上位においたうえでの臣民たちの水平的内在へと流れ易い、そのような性向の淵源としての空海。

  1. p.333 ↩︎
  2. p.333 ↩︎
  3. pp.314-315 ↩︎
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。