2026.07.31

『数量化革命』を読み始める。《王国、公国、伯領、司教管区、自治都市、ギルド、大学など、さまざまな組織の裁判権が迷宮のように錯綜し》ていた中世の西ヨーロッパ社会には、あらゆる紛争を裁定しうる権威というものが成立しないまま《抑制と均衡が保たれていた》。権力の分散によって《亡命者をかくまうための屋根裏部屋が、あるいは少なくとも納屋の乾いた一隅が、常に用意されていた》し、それによって《政治的、宗教的および知的分野における中央集権化と規格化に対して頑強に抵抗》する風土が保たれていた。(pp.76-77)拮抗し分離しつつ共存していた聖俗の指導者たちをおびやかす新興勢力こそ商人や銀行家といったにわか成金たちであった。権力の分散と錯綜によって保たれていた抑制と均衡は、やがてこうした市場原理に圧倒されることになる。資本主義の専制が西ヨーロッパから勃興したのは、そこが中央集権的な機構をもたない土地であったからであるかもしれない。島宇宙のボス猿がバラバラにいることの健全さというのもあるのかもしれない、という関心が最近はある。

『空海』も読み終える。ヒンドゥー教の「有」と老荘思想の「無」の統合としての「空」について考えるとき、思い出すのは、小学生の時エンデの『はてしない物語』の「虚無」の描写の衝撃だ。たしかセントラルの水泳教室のロビーでの出来事だ。ファンタージエンを侵す「虚無」を確認するために木に登ったアトレーユは周りを見渡す。

本から顔を上げると眼下にはプールがある。僕とプールとの間にあるガラスは透明だ。まったき無とは、このガラスの向こうにもガラスがあり、その向こうにもガラスがあり、どこまでも透明がつづき、透過する光もなく、暗いわけでもなく、そういうものだろうかと想像してみても想像できるわけもなく、言葉というのは想像もできないイメージを、それでもたしかにイメージとして喚起するものなのだと、イメージとは視覚を超え出るものでもありえるのだと知ったのはこの瞬間だろう。『はてしない物語』、引用のためにパラパラ見たけれど、ここしか覚えてないな。読み返したくなってきた。

夜、シネコンで『トイ・ストーリー5』を見る。二十二時終映だけれど子供がわりといる。この子たちがけらけら笑いながら見ている様子に泣いていた。『3』はアンディだった僕たち観客たちへの別れの挨拶であり、だからこそこの世代のための『トイ・ストーリー』はここで終わる。つづく『4』はむしろ僕らを映画に連れていってくれた親世代の目線での映画であり、ウッディに託されているのは中年の危機だった。好きだけれどあまりに大人すぎないかと思った。だから『5』が、いまを生きる子供たちのための映画になっていたこと——筋書きだけで見たらほとんど一作目と二作目と同じであるともいえる——が嬉しかった。時代は変わる、でも子供たちへの信頼は変わらない。大きな変化としては、子供とおもちゃの関係をこれまでは自閉的な「ひとりの時間」として描いてきたこのシリーズが、いよいよ他者へのひらかれを扱ったことだ。いつもそばにいるおれはきみのともだち、から、そばにはいるとは限らないともだちと一緒に遊ぶ嬉しさへ。安心な子供部屋から社交の冒険へ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。