通勤読書は『マチズモの人類史』。しかしこれ、金曜のイベントまでに読み終わりはしないかもな。いまのところ、男たちの話よりもフェミニズムの話のほうがずっと面白い。第何波という形でのフェミニズムの整理を相対化し、差異派か平等派かという区分をもちだしてくるのだけれど、そうして立つ見通しはあるなと思った。差異をいい過ぎ、男女を分離し過ぎると、たとえば母性のようなものを揺るがない特殊性としてしまい、それによってむしろ家父長制の性役割を補強しかねない。平等にかんしては言い過ぎるということはないように思うが、それはそれでたとえば差異の単独性を塗りつぶす可能性はある。しかし、平等派においては性区分というそれ自体大きすぎる枠を撤廃することは、むしろ人間というさらに大きな枠組みだけで十分だろうという主張であって、個別具体的な生における自由や平等というものを実現するために共通の枠組みは一個に絞ろうということなので、単独性との緊張関係をすぐさま導き出すことはできない。身体的差異をないことにするのはナンセンスだけれど、身体的差異を人権の差異の根拠としてはいけない、人権は差異に優越するというのが僕の基本的なスタンスになる。生活者としては差異の側に立つが、公民としては平等の側に立つということ。公民としての平等のためには、差異を認めたうえでの絶え間ない調整がつねに必要であり、差異をないことにはできない。だからこそ、性差や階級について盲目なまま、人は生まれながらにみんな平等とだけ言っていればいいものではない。かといって、その差異を本質として捉えすぎてしまうことも、不平等の固定化にしか繋がらない。
固有の生にとって不可侵の差異とはその人がほかならぬその人であるという単独性である。その人がこういう人だという特殊性において被る不平等が是正されるべきだが、平等であるべき項目についてもきちんと明確にしておかなくてはならない。おそらくそれは、第一に残酷さから自由、次いで機会や選択の平等などが最低限であろう。シュクラーを読みたい。
本を買って帰宅するとどっときて、ほとんどなにも読めなくなった。眠たすぎる。新上達也『あなたを待っていない公園』を水を飲むように読む。やはりとても好きだと思う。ここにある歌には「このようにあれ」と個人の単独性を毀損しかねないシステムの特殊性に対し、あえて過剰に適合することで内破させるようなところがある。マゾヒスティックな脱構築の態度によって読み替えられたシステムは無人称なものとして一人称の特殊性を嘲笑い無効化するが、だからこそできあいの一人称が要請する「このようにあれ」から自由な単独性の領域が、誰のためでもなく、ただそこに現れる。差異をいうのではない、平等をいうのでもない、要件から漏れて空転するnull。それで救われる気持ちがある。
