2026.08.19

案の定寝坊気味で家を飛び出す。陽射しがなければずいぶん暑さが和らいだと思ったが、雲が切れた途端にじりじりと照りつける。やはり日傘もサングラスも手放せない。久しぶりの外労働だから、いかにもなきじょっぱい労働飯を食べようと楽しみにしていたのだけれど、あてにしていた店が三軒連続で閉まっており気持ちが挫ける。だんだんと暑さも険しくなってきて食欲も減退。もうだめだ、だめだだめだ、と自棄になる。ケバブサンドで済ませる。これはこれでうまい。しかし、もっとなんか、現金しか使えないような食券機で購うような店が恋しかったのだ。

電車で読むには向かなかったかもな、せめてカバーをかけてくるべきだった、と『BL進化論』を読み進めながら思う。「やおい論争」を紐解いていくところで、雑な個々人の印象論や趣味表明ではなく、きちんと状況を描いたうえで精読していく態度が頼もしい。昨晩、読書猿のnote「批評はなぜ「えらそう」なのか」を読み、歴史の整理としても穏当だし、批判点としても先日のマクルーハンの記事から一貫したものであり説得力はあるのだけれど、それでもやはり僕は小さな対象や不十分な証拠から《すべて》を語ってみせようという大言壮語がどうにも好きなのだよなとも思う。読書猿の批判の力点は、実証可能性のなさそのものよりも、反証を封じたり躱したりする無敵の論法がもつ姑息さやみっともなさのほうにこそ置かれているだろう。僕はといえば、ほとんど個人の自意識の発露でしかないようなテクストでさえも時代や状況というメタテクストへと接続させることで、その個人の環世界をシミュレートするように読み解くことができてしまうというところにこそ批評から得た驚きがある。とことん私的なものなのだ。それでいて、批評が肥大化させていくのはたぶん自意識なんかではない。書かれてしまったものによって仮構されたものの可能性をこそとことん誇張していく。ここにこそ面白さがある。実証や説得も大事なのだが、そういう合理から逸脱した、ある個別具体的な心身が制作してしまった宇宙観を、見ず知らずの一読者がなぜか引き受けてしまう、なんならその宇宙観に自らも取り込まれてしまう、そういうナンセンスの芸が批評なのだ。徹底的な受動が反転してしまう瞬間、というと聞こえがよすぎるか、マゾヒズムの不徹底や拗れが「えらそう」さに繋がることは多々ある。そもそもが手札が少ない者がビッグマウスで転覆をはかるような貧しい者のレトリックだろう。持たざる者の芸なのだ。「えらそう」であり「えらい」ではない所以でもあるが、これを虚勢や遊戯として笑ったり面白がるのではなく「えらそう」と眉を顰める感覚が僕にはいまいちピンとこない。言語運用に関する格差への鈍感さ故だろう。あるいは、インターネット上にありふれている無名のユーザーらの「えらそう」な放言への辟易に関しては非常によくわかる。近年の「批評」への嫌悪は、むしろこのような野良の放言と権威づけられた提言とのあいだに有意差があるようでないということに対する苛立ちなのではないか。おそらくこれからの批評の権威というのは掲載媒体や換金可能性ではなく、ひたすら面白いか否かでしかないのではないかとも思う。つまり、えらいかどうかなどどうでもよく、面白ければじっさい「えらい」し、つまらなければしょうもない、というだけなのだ。与太話の面白さは実証的であることに宿るかもしれないし、理論的には破綻しているものを通してしまうレトリックに宿るかもしれない、人懐こいチャーミングに宿るかもしれないし、なんか迫力のある怖そうな振る舞いに宿るかもしれない。面白ければなんでもいいという胡乱さをこそ僕は好んでいるし、そういう意味で、僕にとって親しんできた「批評家」とは糸井重里と松岡正剛ということになる。——あまりに脱線が過ぎたが、『BL進化論』の「やおい論争」を文脈から掘り起こして書き手の理路に伴走するように精読していく手つきに、じつにいい批評を読んだなあという感覚を覚えたのだった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。