2026.08.21

ムッシュさんが「勝手に踊ってろ」でJUNKYARD1984とさめない社交のイベント内での発言に触発されたエピソードを配信してくれているのを聞く。日記やエッセイにおける脱ぎっぷりの話を、僕はジャケット着るか全裸かという粗さで話しがちなのだけれど、ムッシュさんはこれを水着グラビアとアダルトビデオの差異として語っており、この喩えは的確だと思った。今後はこれを使わせてもらいたい。谷間を見せることと乳首を見せることの隔たりに敏感になること。これは、少年漫画のセクシーな描写のほうが、青年誌のエロよりもいいというような話とも通ずる。しかし、うーん、やはりこういう話を男の書き手がこうして書くことにつきまとうどうしようもない厭な感じが拭い去れない。だからこそ僕はジャケットと全裸みたいな粗さでしか語らなかったのだなともわかる。しかし、このような躊躇いを抱えつつ、ちゃんと細かく欲望や享楽の話をしたほうがいいような予感もあるので練習していこう。

「勝手に踊ってろ」の一個前の「褒め」は手土産であるというエピソードもよかった。相手に興味を持ち、喜んでもらえそうなポイントを探る楽しさという点で両者は共通している。相手の負担になるような過大さにならないように気を配るところまで似ている。なるほど。悪口が巧みなひとは褒めも上手というのも面白かった。好奇心や関心が対人に向くとそうなるのか。作品に向くと批評になる。僕はどうにも作品を介してしかひとに興味をもちづらい傾向にある。これは昨日の溝口の概念を援用するのであれば、ファンタジーと現実を架橋する表象を重視しているということなのかもしれない。そして、社交以降の僕は、衣装や化粧、立居振舞もまた表象として解釈しうるという形で、無節操な拡大傾向にある。要は、ファンタジーと現実のせめぎあい、両者の折り合いのつけ方にこそ関心がある。両者の調停の場としてのイメージ、そのうえで、イメージは両者を規定し、変質させうるものでもあるということの面白さ。ざっくりいえば、さいきん濫用している〈私〉と「私」と言語表現を、ファンタジーと現実と表象と対応するものとして考えている。ひとりひとり異なり通訳不可能である可笑しくて奇妙な欲望の単独性、記述され複製され流通していくなかで構築されていく特殊性、両者と相互に影響を及ぼしあいながら制作される作品。僕は一つめと三つめへの関心が強く、二つめに対する意識が弱い。鮫君やムッシュさんは二つめに対する感度が高いように思う。ここが僕には面白いところ。というか、たぶん、ほんとは大半の人が二つめをこそ重視するのだろうし、そうでないと伝わらないことが多すぎるのだろう。数字にしないと説得力がないし伝わらないよ、というのはビジネスの基本のキとしてどんなものの本にだって書いてあるが、それがいかに本当のことであるかを思い知ったのはほんとうにここ最近な気がする。この生はありふれているかもしれないが、それでも伝達可能性は著しく低い。固有性と作品を直結したくて、その夾雑物として特殊性を考えがちであるが、それではいけなくて三者のバランスをよくしないとよくない。これは個人的にはけっこうな発見。いまさらかよ、という話ではある。

退勤後は平井のさんかくのブロックパーティーにふらっと寄り、鮫君と今後の相談をうっすらしつつ、炭酸水やラムネでおしゃべりしていた。楽しかった夜の帰り道はアイス、つまんないときはラーメン、という時期があった。きょうはアイス。ロータリーでタクシーの運転手を殴った爺さんが警官三人に取り囲まれて「なんじゃ」ととぼけ、「あんたが暴れるからだよ」と返されていた。コンビニ前で屯する若者らにむかって別のパトカーのスピーカーから「うるさいと苦情がきてまーす、ゴミ片付けて家帰れー」と発声される。暴力や権力が帯びるとぼけたユーモアへの嗜好を、そのままそれらへの親近感と取り違えないでいること。面白がりつつ嫌悪することはぜんぜんできる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。