一ヶ月ぶりに『今夜ヴァンパイアになる前に』を再開する。科学や社会学の経験科学が示す三人称的な実証データは、大勢の傾向を捉える笊としては使えるが、あくまでそれはその程度の網目の粗さなのであって、この生の一人称においてある決断がどのようなものでありえるかを示してはくれない。三人称の集合としての科学的知見は、一人称が変容する経験の意思決定の補助にはなっても決定打にはなりようがない。傾向としてこうなる蓋然性が高いからといって、じっさいこの〈私〉がどうであるかは保証されないのだ。大規模言語モデルへの出入力をするたび、生成AIというのはおそらくパーソナライズされうる三人称であり、だからこそ一人称の三人称への疎外という事態が無自覚に頻発しうるものでもあることを思う。おのおののニーズに最適化されて生成される文字列を読む経験は、ひとを読みたいものだけ読む未熟な読者の位置に引き下げかねない。それはつまり、三人称と一人称の区別を看過しかねないということで、ひとはそこまで愚かではないと楽観できるほど、僕は読むのが上手ではないし、書いたものを読まれる経験を重ねすぎた気もする。
