『B2B ジャズ⇄ラップ往復書簡』を読み始める。中村による大谷能生『音と言葉のデジタリティ』「モダニズム、キッチュ、危機の時代の批評」要約の手際が見事で、その後半で示される読みの力点も、らしくていい。
キッチュとは、「これまでの社会の『支配階級』(略)が蓄積してきた文化的創造物の、その『良し』とされた結果のうち、大量生産・大量消費できる部分を取り出して商品化されたものを指す」。そのキッチュを享受するのは貧しいプロレタリアートたちである。そして面白いのが、そのキッチュの政治的効果とは、プロレタリアートを保守的な価値観のままに飼い殺すことだという話です。既存のブルジョア文化の劣化版コピーをプロレタリアートに掴ませておくことで、彼らは現実には決してブルジョアにはなれないのに、ブルジョア文化には親和的な欲望を抱くことになり、結果として秩序に反抗することがなくなる、というあまりによくできた統治の手法がそこに作用している。
大谷能生・中村拓哉『B2B ジャズ⇄ラップ往復書簡』(イースト・プレス) p.184
現実には決して手にすることはできないのに、その文化や規範に親和的な欲望を抱く。それはたしかに秩序への反抗する気風を削ぐ統治の手法でもあるだろう。けれども、しょぼい賃労働者がそれでも貴族的な気高さを誇るような可笑しさが、場違いなノブレス・オブリージュが支えていたものは、単なる支配構造だけではなかっただろう。荒廃した世に流されて荒れることを拒絶する、マイナーで、滑稽な身振り。それは中村のいうフェイクに抗するリアルでありえないだろうか。大谷が整理したように、グリーンバーグにとってキッチュとは反社会的なものであろうとするアヴァンギャルドが商品化可能なものとして骨抜きにされたものであったが、これはアヴァンギャルドがブルジョワ文化を脱却しうるものであることを意味しなかった。
ブルジョワ文化のブルジョワ性を安易に大衆化することなく保持することで、オーセンティシティを重視するスタンスをとれるのではないか。それは、階級的な意味での真正さをもたないまま、文化的な本質を掴もうとするキッチュなものではあるだろうが、そうした高級に手を伸ばす低俗によってひらかれる地平があるのではないか、とここまで書いたところで我が家にゴキブリが出て、大きくて、怖くて、なんであれってあんなに怖いの? 引っ越してから初めて、なのでこの二年は平穏無事だったわけだけれども出て、もうだめでめちゃ怖い、もう退治し終えたけど、怖さに追いつかれる前に処理したけど、奥さんと二人で冷静に対処できてえらかったけれど、もうだめ震えが止まらないもうだめなんも手につかない。なので今日はもうおしまい。
