昨晩もそうだったけれどほとんど無風ではだにべっとりと張り付くような湿気で空気がもだもだしている。体内の水分が浸透圧で漏れ出ていくような不快さで、油断するとあっけなく脱水に陥りそうだった。
電車では『B2B ジャズ⇄ラップ往復書簡』をひきつづき。きのう書きかけた中村への疑問を大谷がラングという語に託す文脈の違いとして明らかにしていた。この本の第二部は、大谷の声/文字と中村のラング/ディスクールという図式のズレについて、お互いに譲らず自らの態度を保持したまま、ある種の噛み合わなさに粘り強く留まって韻を踏んでいくようなやりとりになっておりたいへん楽しい。
以下、ぼんやりと考えたこと。
中世まで、世界を考えるとは神を考えることだった。けれども、カントあたりで神という超越は思考できないとして、この神の位置にものごとの本質をとらえる理性が据えられる。一人称を規定する三人称的規範の位置が、超越から本質へと変質する。つまり、三人称の絶対性がやわらぎ、それを使いこなす一人称のほうへと関心が移っていく道が準備された。これが近代の幕開けである。
さらに二〇世紀になって、実存が本質に先立つといわれるようになる。すなわち、理性という三人称的なものの前に、この私が存在するという一人称的実存が先行しているじゃないか、という申し立てである。このような一人称優越の極まりに対し、実存の一人称のありようというものは、言語や社会システムといった三人称的構造によって無意識のうちに規定されているのだという一人称の解体の試みが現れた。さらに、構造そのものも静的なものではなく動的なものであり、脱構築によって見出される差異が反復されることによってあらたな三人称と一人称のカップリングが生成されうるという道筋が模索される。そこから半世紀以上が経過した現代においても脱人間主義という形で、一人称は解体される方向で進展している。
以上のような粗い見通しのうえで、それでもやはり一人称的実存って無視しがたくあるし、この生をこの心身において遂行するこの〈私〉にとって、いちばん重要で大事で切実なのってこの一人称だよね、ということを疎外するわけにはいかない。そのような固有の生にとって自明の前提を、言語によって思考可能なものにするための模索が、たとえば大谷能生のレコードされた声、山本浩貴の「手前側の生のリテラリズム」や「アトリエ」、中村拓哉の「押韻」する「一人称」、福尾匠が「ひとごと」として示唆するネットワークの空隙にある生、などによって為されている。というふうに同時代の批評をとらえている。
押韻はまた、偶然的なものです。アイデンティティが必然化、絶対化した場合、ひとはそこから降りることができなくなっていく。けれども、「一人称」の言葉は、それを状況という断片的で偶然的なものへと解体することで、それを他者に開かれたもの、押韻可能なものにする。
大谷能生・中村拓哉『B2B ジャズ⇄ラップ往復書簡』(イースト・プレス) p.233
中村の押韻する「一人称」についてのこの記述は、この生にとって特権的な一人称を、三人称的な規範へと押し込めるのでもなく、他者と没交渉な自閉したものとして行き詰らせるのでもなく、他者と関係しうるものとして再度ひらいていくことはいかに可能かを問うている。大谷の敷衍を借りれば、《共有可能なものへと自身の体験を翻訳してゆくこと。語り直されることで、自分一人の絶対的な体験が、音韻とともに偶然性へと解体されてゆく、その偶然性を肯定しながら、この現実を生き延びる術を探ること》p.236の試行として中村の日本語ラップ批評はある。一人称と三人称のカップリングではなく、一人称と一人称の(偶然性のリズムを介した)カップリングでとらえるところに中村の「押韻」論のポイントがある。
さっき挙げた同時代の批評家の、中村以外の書き手はむしろ、この一人称において書かれレコードされたものが三人称的に立ち現れることへの驚きや、三人称的な文章や録音がこの一人称において一人称的に再生されることへの驚きのほうへと傾いている印象がある。僕もまたそのような考えだ。中村はしかし、ギリギリまで三人称的なものを拒絶し、それ抜きで成立する一人称の関係を志向しているようにも思われる。引用部分を読めばわかるように三人称的なものを否認しているわけではない。それは所与のものとしたうえで、あくまで一人称の表現の手段としての位置しか与えない。おそらく、ここにラディカルさも賭けられている。三人称を一人称に優越させるなどナンセンスだというだけでは足りない、両者は等価でさえない、しかしそれは実存への回帰でもない。動的な一人称として複数化される。ラディカルな一人称至上主義。
