奥さんが飲み会で不在なので夕方から映画漬け。お酒を飲みながら未見の映画を見てみる会としてまずは『スターシップ・トゥルーパーズ』。無邪気な植民地主義をあえて屈託のない娯楽作として描ききっており、楽しさと怖さの塩梅がほとんど『進撃の巨人』だった。グロテスクな軍国主義や差別、なによりこちらから侵略しておいて相手を脅威として描き出す態度について、作中で明示的に批判されることはなく、観客側はふつうにこの「戦争」に大義も正義もあったもんじゃないよなと白けながらも娯楽大作としての求心力で最後まで面白く付き合えてしまう。市民権を得るために兵役に就く若者たちが、男女共用のシャワーシーンで語らうシーンが白眉。ただおっぱいを撮りたいだけのようにも見えるし、真剣に平等を考えているようにも思える(しかしその「平等」とは兵役と選挙権が直結した社会におけるそれなのだ)、でも性器は決して映さない、その奇妙なバランスにこの映画のスタンスが端的に要約されている。今のアメリカを見ていると、頻繁に挿入される劇中劇としてのプロバカンダ広告の白々しさからきちんと皮肉を受け取る知性を信じるのは難しくなっているのも感じる。政府広報がパロディを凌駕したばかばかしさを体現してしまう時代に、この映画はつくられ得ないだろう。
続いて三池崇史『オーディション』。構図がいちいち決まっている。作中で明示的には反省されない、女性を客体化する言動それ自体が、演出によって客体化されているという手つきは図らずも『スターシップ・トゥルーパーズ』と通じるところがある。全編不穏さがみなぎっており、男たちのえぐい所業とそれへの無反省がずっと怖いのだが、最後の最後、明確に立場が逆転してからのばかばかしさったらない。このようにある切実さの表出がユーモラスでさえある人体破壊描写として結実するのも『スターシップ・トゥルーパーズ』と似ているっちゃ似ている。映画が必然的にもつ、アイロニカルな唯物論を脱臼させるものとしてのエログロ。暴力映画がそのまま暴力を肯定しているというわけはなく、しかし暴力自体の魅力を否定しているわけでもなく、むしろより抽象的だったり構造的だったりする不可視な暴力を暴露するためにこそ誇張された暴力をスクリーンに投げ出すわけだ。しかし、拷問描写は最高なのと対照的に、階層として描かれる女性への虐待描写は『着信アリ』もそうだったけれどかなり陳腐で、よくなかった。怪人や怨霊を安易に人間の座に引き摺り落とす行為は、むしろ暴力映画の暴力の価値を不当に貶めるだろう。それはむしろ現実の子供や女性への暴力を矮小化することですらあり得るという点で徹底的に不当であると僕には思われる。不条理な怪物として描ききってこそ、そのような怪物に不当に背負わさせているものへの感覚が鋭敏になるのであり、因果関係を明示することはむしろ複数のロジックを簡略化する知的怠慢でしかない。
そういう意味で〆の『カリギュラ』は皇帝たちが無意味な怪獣として置かれておりその点はよかった。三時間もだらだらやる意味はないに等しかったが、ちんちんとおっぱいの気前の良さは随一。しかし前二作と比べてしまうと、そのちんちんやおっぱいは、ちんちんやおっぱいでしかなくて、地球軍のシャワーシーンのような多重な捩れは存在しない。怪人の背景を明示的に語らないという点で『オーディション』の瑕疵を回避できているのと同じ理由で、エログロをやりたいという意思も平板なものになっており、いっそ当時の公開版のように思い切りポルノに振り切った方が潔かったのではないかとさえ邪推する。というか、結局ポルノ版が見てみたくなった。なぜなら、『カリギュラ』の美点はべたっとしたエログロにしかないように思えたからだ。エロやグロへの好奇心で釣って、エロやグロ自体を複数化された象徴として撮るというような映画がやはり好ましいが、『カリギュラ』は先述したアイロニカルな唯物論の次元にあえて留まるところによくもわるくも無著さがある。批評性のなさにあえて批評性を読み込むくらいしか、読み方は残されていない感じがする。シェンキェーヴィチ『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』でも好きだった、世を儚んで風呂場で静脈ひらいて自死するシーンがあったのはよかった。
