2026.09.05

カハタレの新作を見に王子に。時間に余裕があったので駅前の変な構造の商業施設内のトップスのカフェで一服。トップスのカフェは嬉しい。

観劇後のアフタートークでは調子よくしゃべる。今回の作品はテキストだけで見ればかなり嫌いな部類ではあるのだけれど、それが芝居として俳優の体で再現されることで意味があるものになっていたと思ったのでそのあたりを明示的に好悪の話にはしないまま話してみた。『人間関係の構造と手立て』への宣伝に繋げながら話したけれど、その文脈で言い直せば、作中の視点人物「オロカ」には、語りを通して三人称的規範を特権的に占有できると勘違いした中途半端な一人称しか存在せず、きちんと自らの一人称を引き受け鍛え上げることにも、他者にも一人称的な余剰や欠落があることを想像することにも失敗している。そのような尊大で臆病な自閉の身振りにこそ、「愚かさ」があるわけだし、テキストという一人称的表象ではそのような「愚かさ」への自嘲的な居直りしか感じられない気がしたのだが、上演という形で三人称へと開かれた結果ようやく切実さを得ることができたのでは、というようなことを話したつもりだ。アフタートークでは柿内さんは成功したオロカってことですかみたいな発言もあったけれど、一緒にしないでほしい。僕はああいう人は嫌いです。

嫌いな人の生に、それでもいちど三人称的に立ち会うことで、自らの一人称を鍛え直しつつ、嫌いな人の一人称を自分とは関係のないものとして演算してみるというところにこそ読書や観劇、あらゆる鑑賞の意義はある。自閉した誰かの一人称を、あえてこの一人称において引き受け再現するという俳優の演技が、そのような鑑賞を可能にする。モノローグは、複数の心身で実行されないことにはまったく効力をもたない。カハタレはこれまでも長いモノローグを好んで作品内に持ち込んできたが、それは自閉のためではなく、自閉という状況そのものを上演としてひらいていく試みだったのではないかというようなことを考えた。あらゆるテキストを戯曲として読むというカハタレのリーダー稲垣さんの態度がやはり重要なのだ。ひとりぼっちでひとりよがりなままでいることを、上演可能なものとしてとらえなおし、集団で制作し、観客と共有してみせること。

東京のセブンでしか売っていないレーズンサンドを親水公園で分けっこして食べて、上野の改札内の弁慶で立ち食い寿司。秋葉原の書泉グランデに寄ってから帰ったのだが、書泉でふたりとも謎にタガが外れてめちゃくちゃに買い物をした。まずなにより『ギリ子』。ペーパー目当てでわざわざここまで出てきたのだ。そしてここからは予定外の欲望の暴走。『デビルマン』の大判愛蔵版全三巻、中村明日美子を数冊、猫十字社特集の雑誌、『ラシャーヌ!』愛蔵版全三巻。かなり重たくて、気圧の下がる帰り道で我に返りかけた。『ギリ子』は帰路で読み終えて、寝るまでに『佐条利人の父とその部下』を読んでうーん、となり、『ダブルミンツ』を読んでうんうん!となった。前者はファンタジーに持ち込もうとしたリアリティの扱いに失敗していると感じ、後者はファンタジーを徹底していて好ましかった。『佐条利人の父とその部下』に感じたアンバランスさは、おそらく今回上演されたテキストとしての『愚かな者の書』に抱いた印象と近いような気がする。一人称的欲望のファンタジーを投影した作中世界に、当人が「現実」として偏見しているリアリティを持ち込むことの難しさ、みたいな話がしたいのだが、今日はここまで。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。