『魔の王が見る』のグリーナウェイの章を読む前に見れそうなものは見ておこうと自宅で特集を組む。
『コックと泥棒、その妻と愛人』は、泥棒が自身の財を誇示しステータスを糊塗するために経営する高級フランス料理店の搬入口、厨房、ホールという三つの空間を主な劇空間として展開する。この三つはつねに下手から上手へ、という位置関係に置かれつづける。じっさい、この映画はほとんど横移動するカメラの運動によって活性化される。各曜日の冠されたメニュー表が一幕ずつを表し、毎日来店する泥棒一味は正面からではなく、搬入口から侵入してくる。穢れとともに入り、羽や鱗をむしられ加工され、洗練された食卓へとサーブされる腐りやすい肉や魚と同じ経路。第一の曜日からして、キッチン側から覗き込む画角で映される搬入口で振るわれる裸身の男への暴力から始まり、横柄な態度でネオンサインをキッチンに持ち込み電気を蕩尽するようす、ホールの定席に陣取り下品な所作と会話で食卓を蹂躙するようすがメニュー表に記された蠱惑的な文字列を舐めるように左から右へと移動するカメラによって語られていく。さらには搬入口の青、キッチンの緑、ホールの赤と、空間ごとに意味だけでなく色彩もまた厳密に割り振られており、編集点でもある画角そのものとぴったり一致する厚みを持つ壁を超えて空間を跨ぐごとに、人物たちの衣装を染め上げる色もまた変転してゆく。
レストランのスノビズムに馴染まない粗野な泥棒に辟易とするコックは、審美的な舌を持つ泥棒の妻へシンパシーを抱いている。泥棒の低級な舌では読み解くことができない味を妻は享楽する。コックの手解きを通じてテイストを洗練させていく妻は次第に夫との階級的乖離を自覚することになるだろう。その日、ホールの中央に据えられた一味の席から斜めに視線を投じると、壁際に本を味読しながら食を進めるひとりの紳士を捉える。この人は夫が到底組み尽くせないものへのリテラシーを有しているに違いない。じっさい、紳士は泥棒の妻の視線の意味内容を瞬時に読み取り、純白のトイレでの誘惑の読み書きが始まる。人目を忍んでトイレを捉える画面の奥側にある個室に立て籠もりおっぱじめようとするこの初日から、次第にコックの幇助もありキッチンの奥まったところにある食糧庫でお互いを貪る妻と愛人の逢瀬はつねに横移動で強調される平面的な画面の奥で行われる。とうとう彼らが潜伏する書庫もまた、入り口から書棚の森を掻き分けた最奥に寝室が据えられることになるだろう。髪の結い方からして毎晩異なる装いの妻と対照的に、恋人のスーツは毎日変わり映えもせず、空間につられてその色調を変化させることさえしない。愚鈍だ。けっきょくこの恋人はつねに読む者でしかありえず、周囲の環境とまぐわい関係することができない。つまりはこの映画をこのように絵解きして納得する程度の頭でっかちなグルマンもどきにしかなりえない。けっきょくはあらゆる空間を我が物顔で占有せんとする、泥棒のような横柄な征服欲こそがあらゆる上品な秩序を台無しにして、ぐちゃぐちゃに散らかし放題散らかした挙句に呑み込むようにして喰らっていくのである。
しかし、それで終わりではない。せいぜい編集者や出版社でしかありえない泥棒は、権威のありかとしての作者author(ity)たりえない。それはやはりコックの権能なのであり、かれに霊感を与えるのは家父長としての事業家(泥棒)でもなければ、間男の批評家(恋人)でもない。この人を悦ばせたいという欲望を喚起する、口数が少なく蠱惑的な一鑑賞者(妻)であること。泥棒一味の吐き気を催すほどの生臭い身体の存在感に反し、この映画で最終的に勝利するのは身体的な官能ではなく、作品とその玩味によって通じるコックと妻の精神的交歓であった。わお、僕これめちゃ好きだなーと思う。
つづいて『英国式庭園殺人事件』。夫が留守にしている十二日かけて十二の絵を描くことを請け負った画家が、まず妻と、そしてその娘と交わす契約により、厳密に二時間ごとに設定された制作と密通のスケジュールをこなしていく。描かれる庭や屋敷は遠近法の道具によってグリッドに配置され、線画に起こされてゆくのだが、空間が体現しようとするイデアに夾雑物のように入り込むブーツやシャツ、上着といったオブジェが、いつしか殺人のエビデンスとしての意味を帯び始めてしまう。三次元を二次元に落とし込むイリュージョンが、いつしか犯罪を指し示すものとして読解されるべき克明な記録へと脱魔術化される。全てを解釈し絵画として縮約する、そのようにして世界を意味付ける権能をもつ特権的な立場であったはずの画家は、自ら持ちかけた契約の罠に絡め取られていつしか不完全な探偵として狂言回しの座に甘んじるほかない。コックから泥棒へ、そして無惨に殺される恋人へ。画家の男は三役をひとりで演じ切る。中心に核心として据えられているのが妻であるのも『コックと泥棒、その妻と愛人』と通じるところだけれど、こちらは妻たちと二重化されているところに面白さがある。デメテルとペルセポネになぞらえられるこの母娘がしたたかにもプロスペローの座を占めて全体の絵を描いている痛快さ。ここまでに見た『ZOO』、『プロスペローの本』などと比較しても、もっとも女性が主体的に活躍する映画がこれだった。だからこそ、彼女たち自身がなにかを描き描く手をもっていたならば、と思わずにはいられなかった。
