『「物語消費論」集成』は、紙質も、がびがびな再録図版も、ひらいて一枚目の紙の裏側からびっしり文字があって遊びがないのとか総体としてかなり貧乏くさい造りでつまらないのだけれど、そのあけすけな原価意識が内容と一致してもいて腹立たしい。食玩のアリバイとして同封されるぺらっぺらのウエハースのような物質感をもった本だ。大塚英志のいう「物語消費」とは、商品として提出された物語を消費するということではない。断片的に提供される情報を受け取った消費者がみずから物語を積分していくという行為それ自体を消費行動として捉える概念である。現代の陰謀論や推し活みたいなものにまで連続する消費の形態が、すでに四十年近く前から観測されていたわけだ。このような消費は、有機体が有機物をとりこんでエネルギーや栄養に変換するという意味でのそれに近しい。消費者としての個人らは、ただ与えられて摂取することよりも、それを血肉としてみずから代謝することにこそ喜びを見出す。ついつい自分で話し出してしまう聞き手たちの夢は、インターネットおよびソーシャルネットワークサービスの登場によって現実のものになって久しいけれど、ここで起こった変質とは、ひとびとの「物語消費」がもはや無償の「労働」めいてきているということだと最新のエッセイでは示唆されているが、これ自体はかえって新鮮味に乏しい穏当な見解という感じがする。面白かったのはむしろ最古のエッセイと最新のエッセイの中間にあるものたちだ。つまり、ビックリマンチョコと陰謀論のあいだになにがあったのか、それはエコロジー消費やエシカル消費であった。消費すべき「物語」として超国家的な地球をもちだしたことは、ある種の非政治化のようでいて、実は今日の政治の「物語消費」化を準備していたと読める洞察が、当時の観察と予測として読めたことがいちばんの読みどころだった。どれだけセルトー的な密猟の仕草で誤読し作り替えていったところで、そのような消費を可能にする生産や流通の様式は誰かに握られているし、広告(プロバカンダ)から無縁ではありえない。後藤護から僕のなかで始まっている、マニエリスム・バロックブームというのは、要素を過剰に積分しごてごてと怪物めいた建築を騙り始めてしまうような批評の野蛮な楽しさをそこに見たからなのだけれど、大塚はそれもまた消費に過ぎないと冷や水を浴びせる。
季節の変わり目の気圧と寒暖差、奥さんの長引く咳喘息、切りそびれて重たい髪、寒くなってきて僕の枕や腕のうえで眠るようになったかわいい猫。あらゆる要因でどんどん余裕と元気がなくなっており、いまだいぶ頭と人相が悪い。『大江戸視覚革命』は古本だったのだが、微妙に青ペンでの書き込みがあり、しかもその線の引き方や囲み方がなんか微妙にイケておらず、しかもたぶん三分の一ほどで放り出したっぽいから、こういうダサい読み方するやつは最後まで読めないよな、みたいな意地悪な気分になる。じっさい、古本で書き込みがあってそれが気に食わないとき、だいたい最後まで書き込まれていたためしがない。関心する読みの痕跡がある場合はけっこう最後まで本が汚されてる。線を引いたり囲んだりしているだけでマルジナリアにコメントがあるわけでなくても読み筋というのはわかってしまう。僕はそれが怖くて書き込みとかできないところがある。つまり、再読時に再読する僕にくそみそに貶されかねないという恐れだ。
