昨晩の反動でほとんどずっと寝ていた。庭木の剪定の見積もりに来てもらうが、この時期はちょうど書き入れ時らしくなかなかすっと日程は決まらなそう。一七時前になってようやくコーヒーを淹れ、一日が始まる。mokuの挙動についてテストユーザを気取ってフィードバックの連絡を送る。真摯に対応していただけて頼もしい。もっといいアプリになって、たくさんの人の役に立つものとして活躍していってほしいし、ちょっとしたお手伝いをどんどんしたい。勝手にあれこれ検証を重ね、だんだんベストな使い方を見出してきた気がする。
『大江戸視覚革命』で、水銀鏡の衝撃について語られているところを読む。それまでの青銅鏡は曇りやすくまた錆びやすいため、きちんのしまっておいて使う時だけ専用の台に置いて使っていた。そこで映し出される鏡像は、顔まわりだけのものであり、明確な姿の反射というよりもむしろ影のようなものであっただろう。水銀鏡は家具のように据え置かれて、しかも全身をくっきり映し出す。それは三人称的自己認識を促すような新規の経験であっただろうと書かれている。
鏡をしまうことはない(その必要もない)となると、箱から出し、磨き、台に立てるといった作業も不要で、いつでも自己-像が現前していることになる。実際、ガラスの鏡のお蔭で人は自分自身の身体との子期せぬ偶然の出会いを初めて経験することになった。たまたま正面をよぎったりすると、いきなり自らの身体、自らの顔が此方に投げ返されてくるのである。長久保赤水は新型の鏡最大の特徴として、通り掛かりの人間だれしもの思いがけない像を映しだすことを挙げている。青銅鏡は無防備の一瞬を映すことなどなかった。水銀鏡は一個の身体を、否も応もなく、内側へ、頭のてっぺんから足の指まで、総天然色で、突然、まるで三人称のように突きだしたのである。
T・スクリーチ『大江戸視覚革命 十八世紀日本の西洋科学と民衆文化』田中優子・高山宏訳(作品社) p.327
鏡は、つくった顔の影を仄かに返すものから、ふとした瞬間の肢体を詳らかに突きつけるものへと変化した。鏡像の意味が、曖昧な二重写しの陰かたちから、明晰な客観イメージへと移り変わる。
書かれた言葉、舞台上で吐かれた言葉は明確な輪郭線を持ったテクストとして、一個の身体を、否も応もなく、内側へ、頭のてっぺんから足の指まで、総天然色で、突然、まるで三人称のように突き出すだろう。なんでもない一個の身体の無意識が、内面的な三人称の印象によって再帰的に意識される。もはや一個の身体は、意識的なものとしてしか許されなくなる。それでもはやりそれは無防備な一瞬をもたないではいられないわけで、それが三人称的な人格とのあいだで不整合を起こした時、どちらを取るべきなのだろうか。三人称客観という見かけは、あまりにはっきりとしていて、そうとしかありえないような気に容易にさせられる。
むしろ使うたびに力一杯磨き上げないことにはどうにもならない、青銅鏡のような自己省察の道具こそいま必要なのかもしれない。日記もそのようなものとして扱いうるだろう。主観の影。身体的な散文として。先日の来世さんとの会話以来、『個の誕生』で坂口ふみが描くペルソナから個人概念へ、みたいな話を再読したい気分である。
夕食は奥さんのつくる油淋鶏。これまでもも肉で、大好物だったのだけれど、もしかしてむね肉のほうがいいのかもしれない。衣がしっかりサクサクになり最高に美味。お風呂上がりのおやつはお土産の十万石饅頭。うますぎるということはない、ちょうどいいうまさ。すごくちょうどいい。DDT最後の新宿FACE大会を見ながらお茶を飲み、ソファではヒトのあいだにルドンがぺったんこに寝転び微睡んでいる。
