きのうは『ゾルタン★星人』——原題は『Dude, Where’s My Car?』——を見たから『失敗のクィアアート』の続きを読む。この本では原題に即して『この野郎、俺のクルマはどこだ?』と表記され、さらに『この野郎』と略される。本編でもしつこいくらい繰り返されるDude。いや、それだけではない。この映画はうんざりするくらい反復に満ちている。And then, and then, and then… 積分されるわけでもなく、ただ空虚に、マヌケたちは繰り返す。なにも学ばず、なにも残さず、なにものも嫌悪せず。
『この野郎』は、現代の地政学的な出来事を理解するための寓話のフレームを視聴者に提供している、と私は考えている(期待している?)。というのも、この映画では、ありえないほどマヌケな男性コンビが、地球の破滅と救済とを同時に担っているからだ。ジェシーとチェスターは、エイリアンから科された記憶喪失のせいで、そもそもなぜ自分たちが攻撃されているのかを理解できず(「おい、なんで連中は俺たちを嫌っているんだ?」)、自分たちの「自由」が他の人々の不自由の犠牲のうえに成り立っているという事実を忘れ、無視することができる。しかしそのおかげで、嫌悪や分別もなく倒錯や空想に没頭することも可能になる。彼らの寛容さは彼らの愚かさと表裏一体であることが明らかになる。彼らの愚かさは、批判的判断の好ましい欠如として描かれており、この欠如によって彼らは、政治的鋭敏さ(自分の偏見に気づくこと)からも政治的な偏り(同性愛嫌悪)からも解放されているのである。二人は健忘症による循環のなかで共に生き、周りの人びとの全員がよく覚えていることを忘れるように仕向けられている。
『この野郎』の「愚かさ」とは、知に対するある種のリラックスした(緩い)関係であり、それが逆説的にジェシーとチェスターの操作性と浸透性を高めている。まさしく彼ら自身の物語が不確かで回復できないからこそ、彼らは他者の語りをよく受け入れる者たちになっているのだ。(…)
ジャック・ハルバースタム『失敗のクィアアート 反乱するアニメーション』藤本一勇訳(岩波書店) p.90-91
マヌケな白人コンビに誇張的に託されているアメリカという国の健忘症を、侵略者の子孫に都合のいい構造を温存する許しがたい無知であると糾弾することは容易い。しかし、自分たちが誰かに不自由を強いているという分別がないほどに無知でなにも覚えちゃいないからこそ、〈彼らは他者の語りをよく受け入れる者たちになっている〉。この逆説をどう捉えるべきか。原著の書かれた子ブッシュ政権下においては、ある種その愚かさの最悪の形は子ブッシュ程度で済んでいたともいえる。もっと愚かしい道を進んでいるように見える現在のアメリカにおいて、かれらの愚かさと寛容さのカップリングを肯定できるだろうか。いやむしろ、友と敵、内と外、おれたちとやつらを厳然と仕分け、前者だけに利するような一面的な「知」を働かせるトランプの移民税関捜査局の時代だからこそ、自他の区別やジェンダー規範に頓着せず、ノリだけで誰とでもわちゃわちゃと楽しむジェシーとチェスターのような徹底した愚かさがより眩しく見えるということもありえる。そう、トランプのアメリカとは、マジレスされて醜悪にこじれたジェシーとチェスターの成れの果てである可能性がある。愚か者が中途半端に賢くなるより、リラックスしていてもらった方がずっといい。いやしかし、などとかれらの愚かさ、忘却をめぐる考えはすっきりした着地点を見出すことを許さない。ハルバースタム自身、この映画からどのような論理あるいは非論理の戦術を引き出すべきか、賢くも明言を避けている。教訓を引き出す身振りに直後、ひらりと話題を転換してしまうのである。そりゃないぜ。Dude, おまえの考えはどうなんだよ?
章を跨いで『ベイブ』がちらちらっと参照されていて、そのたびにそわそわする。『ベイブ』の読解だったら負けないぞとも思うが、そこまで踏み込んだ批評はなくてすこし物足りない。しかし、ベイブも含めた子供向け映画のキャラクターたちを召喚した後に続く以下の一節とかしみじみとよい。
(…)内なるダサさを発見すること、劣等生であること、挫折すること、注意散漫になること、回り道をすること、限界を知ること、道を見失って迷うこと、忘れること、習得=支配を避けること。そしてヴァルター・ベンヤミンが言うように、「勝者への感情移入は決まって支配者を利する」(Benjamin 1969: 256)と認識することだ。すべての敗者は、先に敗れた者たちの相続人である。失敗は仲間を愛すのだ。 同書 p.181
「勝者への感情移入は決まって支配者を利する」。これこそ、ジェシー/チェスターとトランプを分けるものだ。愚かな二人組の気持ちいいバカっぷりは、勝ち負けや感情移入とは無関係のものである。かれらはただ目の前にある状況や他者の猿真似をするだけで、権力への意志どころか明日に向けた計画さえさっぱり持っちゃいない。誰の役にも立たないからこそ、当然、支配者を利することもありえない。自分の生活には関係のないものへの憧憬から、金持ちやチャンピオン、政治家といった「勝者」に愚かにも感情移入して「支配者」を利するありふれたお利口さの救いがたさを思うと、勝ち負けを超越した〈批判的判断の好ましい欠如〉をもって、おれたちとも「ほかの人たち」とも、分け隔てなくその場のノリで騒げる愚か者どものほうが、たしかにずっと好ましい気がする。
moku のおかげで今日はスクリーンタイムが二時間を切った。先週比で四割以上の減少だ。ありがたい。フィードバックした不具合もさっそく修正版がリリースされており頼もしい。久しぶりにReads にもアクセスして、滞っていた読書記録を遡及的に補うのは諦めて——どうせNotionで管理している——これから手に取る本をどんどん記録していく。『人間関係の構造と手立て』のページを確認すると糸太さんという方が感想を記してくれていて、それを読んでとても励まされた。そこそこ信頼している人たちからも「難しい」と言われたりして、これまで以上に親切に書いたつもりでもなおそんなもんか、と自らの悪文の伝達能力のなさに落ち込んだりもしたのだけれど、この方のように意図したことを意図した通りに読み取ってくださる読み手もいるのだと思うとよーし、もっと書くぞぉとはりきることができる。
私たちが生きるのに不可欠な「社会」を、ゼロベースで見つめ直し、その構造を理論立てて説明してくれる。たしかにそう出来てるよなあ、と感心しながらするする読み進めていくと、結論に至る直前で突然ストップがかかる。
ちょっと待て。なるほど、とか考えているその自分は、本当の自分なのかと問いかけられる。社会を考える第一歩であった、誰かとの対話で生まれた関係性から、気がつけば随分遠いところに来てしまっているのでは。自分が社会の中でどうありたいかを考えるならば、一度そこへ立ち戻る必要があるのではないか。
つまりは実際の対話である。柿内さんの話に説得力があるのは、その場づくりをすでに実践しているからだ。
この論考の伝わりやすさと、懐疑的に自分を客観視できる頭の柔らかさ、そして仮説を実証に移す行動の速さが、とても好ましいし応援したくなる。できることなら対話の場へも、参加したくなってしまう。
「ひとは話すことで、「こうでなくてはいけない」という規範から逸脱し、「それでよければそれでよい」というあっけらかんさへとひらかれる」
こうした表現の仕方が好きだ。きっと実践からのフィードバックもいろいろ整理されているのだろう。どう展開されていくのか、とても興味がある。
https://www.reads.jp/posts/1833123
書き言葉でわかりやすく説明する知は、どこかで陰謀論めいた整理への欲望に堕する。そうなる前に、そのような説明書きなど意にも介さずノリで行為している愚かな話し言葉の現場に身を浸すことで知のICE化を回避する。社交とは、〈知に対するある種のリラックスした(緩い)関係〉のレッスンであるともいえるだろう。
