2021.10.12(2-p.166)

昼過ぎに散歩に出かけるさい、ふと思い立ってポイエティークRADIO オリジナルステッカーを持って出る。これをいろんなところで撮影して、適当に切り貼りして午後さんが制作してくれた音楽のミュージックビデオとしよう、と思い立ったからだ。小雨が降っていたが、むしろちょうどよい。ポイエティークRADIO には曇り空がよく似合う。そう思いながらコンビニまでの道中、公園の滑り台や、植え込みや、いい感じにひび割れた地面や、汚れた壁なんかを見つけてはステッカーを設置してiPhoneで撮影していく。当初は一分ずつくらい撮って、六箇所あれば十分かな、と考えていたのだけれど、小雨の中、傘をさしながら平日の昼日中からiPhoneをじっと持って立ち尽くしているというのは、一分もできるものではない。しゃがみ込んで地面を撮るとなると尚更だ。三十秒でも緊張するものがあった。この三十秒、身じろぎせずiPhoneを虚空に構える姿は不審の極みだ。人通りもないではない。それでも、画面に視線を集中させて映りをチェックしないといけない。視覚以外の感覚が、視野の外へとフル稼働する。誰か来たらどうしよう、何やってるんですかと声をかけられたり、通報されたら。どきどきしながら五箇所くらいでの撮影を終えて、限界だった。これ以上はできない。『何もしない』を思い出している。バートルビーの意志の強固さを。街で、ただじっと一分立ち尽くしたり、しゃがみこんだりするというのがどれほど困難なことか。知らなかった。こんなにも、外で金も払わずじっとしているというのは居心地の悪いことだったのか。

帰ってお昼は奥さんの作ってくれたカレー。しかもバスマティライスだ。バスマティライスは軽いから、たくさん食べてももたれない。美味しい。食器を洗ったらGarageBandで編集、YouTubeの公開設定まで合わせても、食事の時間を含め三時間弱。この雑さと速さがポイエティークRADIO だ。なんだか格好いいんじゃない? と思う。奥さんは、足ツボマットが汚いのやだ、とだけ言った。奥さんは日記も誤字の指摘をしてくれるだけで、僕の作ったものを褒めてはくれない。録音するときもだいたい僕の視野の狭さや唐突さに冷静に突っ込んでくる。僕の大したことなさを、杜撰さを、がさつさを突きつけてくる。ありがたいけれど、時々しゅんとする。思えば身内に褒められないでずっとやってきた。中学生の頃のブログを読んでいた両親には、文章がもう少し上手だったらねえ、と言われ続けた。大学の頃に作っていたお芝居も、座組の俳優から、これ面白いんですか? 疑いの目で見られていた。ブログはクラスメイトが笑ってくれたし、お芝居は観客に気に入ってもらえば報われた。日記や録音だってどこかで読んでくれる知らない人たちの言葉に励まされている。制作についてのジャッジは家の外にある。でも基本的に僕は、家の人に、なんかいい感じだね、と言ってもらえるようなものが作りたいのだ。

コンビニで印刷した『会社員の哲学』の第二稿に修正と追記を書き込んでいく。なんだか僕としてはこれはめちゃくちゃ面白いのだけれど、そもそもの「なんでこんなの書いてるの」みたいな前提の共有が文章の中でできてるかどうかがとても心許なくなってきている。誰かの目を借りたい。編集者を募集したい。先んじて読んで、感想をくれる読者が欲しい。でもそれはたぶん奥さんではない。

この前のポイエティークRADIO で午後さんとお喋りしながら感じたことを、それを聴いた奥さんにも指摘されてしまう。曰く「結局あなたはホワイトカラー的なブルシット・ジョブに胡座をかいてるってだけじゃない?」ぐうの音も出ない。その通りかもしれない。この前のお喋りの僕の語りはまさに特権的な立場にあまりに無頓着だったからだ。録音でも何度も話している通り、声を使って言葉を運用すると、こういう無自覚(でいられてしまう自身の特権性)が炙り出されてしまうから恐ろしいし、そこがいいところでもある。ちゃんと聴いた人から苛立ちや異議をぶつけてもらって、目を覚まし、ちゃんとした観察の契機とする。そのためにも声の恐ろしさから逃げないでいたい。僕は間違えもするし、酷い欺瞞に胡座をかいてたりもする。自分の愚かさや残酷さに気づくためにはまず数打たなきゃならない。賢そうな顔して黙っていたらバレないかもしれないが、そもそも黙っていられるということ自体が特権なのだ。雄弁さは他者の圧倒のためではなく、間違い、それを正すために使いたい。「いい本を読むといい人間になりたいと切実に思う、思うだけではなれないことなどもう骨身に沁みてわかっている、なんどでもこの気持ちを忘れる、だからいつでも読んで、思い出し続けていたい」。たま子さんが引いてくださった『プルーストを読む生活』の一節は、何度も何度も立ち返る地点だった。

もちろんいま書いているものの射程はホワイトカラーだけでなく、むしろホワイトカラー/ブルーカラー的な二項対立をどう無効化できるかみたいなことをこそ捉えたく思ってるのだけど、無自覚にホワイトカラー的な視座から始めている部分が沢山ありそうにも思う。難しい……、なんでこんなことしてるんだ……、と呻く。

『Fate/EXTELLA』は焔詩篇のエンディングまで辿り着いた。それで打ちのめされてめそめそ泣いた。用法はたぶんちょっと違うのだが、え、待って、無理、しんどい、というやつだ。ネロちゃまに、そんな思いしてほしくない! と夕食の席でワアワア言うと、新鮮なオタクの叫び声はいいね、と奥さんは楽しそうだ。こいつ人の心がないんか。僕はオタクという人たちをなんだかんだまだちょっと馬鹿にしていた。語彙力が喪失して定型文ばかり書く人たちと見くびっていたところがある。あとキャラクター可愛さに凡庸なプロットにいちいち大騒ぎして、作品のクオリティを正当に評価できていない、とも。しかし分かった。人は、推しについては、簡単に感情がメチャクチャになって言語化が追いつかないから定型文に縋りたくなるし、ありがちな話だろうが本気で怒ったり喜んだりしちゃうし、作品としてどうかとかどうでもいいから推しの幸せだけを願っちゃうもんなのだ。いいですか、推しってのはねえ、もう固有性を持ってしまうわけですよ、そうなると、作品としての先鋭性だとか独自性とかなんぼのもんかって話ですわ。ねえ、だってそうでしょう? 自分の好きな人が交通事故で死んだとして、ありがちな話だよね、で済ませられます? 納得できます? できませんよね! よくある話だからって、それで推しの味わう苦しみや悲しみが緩和されるわけじゃないですよね! 統計の目線で固有の人生が語れるわけないだろ。ある一個人にとって、あらゆる出来事がかけがえなく、絶対であるように、推しの行く末は陳腐であろうがなんだろうが絶対的に唯一のものなんだよ! わかったか! かつての自分!

──ハイ!

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。