2021.10.28(2-p.166)

季節の変わり目! 消えた安定 情緒大暴走

今日一日にタイトルをつけるならばこれだ。家にいると勤務日である奥さんに迷惑をかけるのは自明。家を出ることにした。今日はめちゃくちゃに本が読みたい。あと博多ラーメンが食べたい。一つの場所でこれを叶えようとすると下北沢だった。

行き帰りの電車では『地球最後の男』を読んでいた。謎のバクテリアによって変容を被る人間だったモノを、この小説では吸血鬼と名指してはいるが、驚くべき程ゾンビものの要件はここに揃っている。閉鎖空間への籠城、生活空間のDIY、孤独に生き続けることの単調さ、ささやかな生の痕跡への喜び、単調な安楽を脅かす生きた隣人、まったき他者であるはずのゾンビへの共感、親密な誰かが変容する絶望──、さすが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の元ネタ。むしろなぜこれが吸血鬼ものとして受容され、明らかに本作の本歌取りであり、本編では特に「ゾンビ」という語が使われることのないロメロの諸作品はことさらにゾンビが結び付けられたのか、謎が深まる。

下北沢に着いていそいそと一蘭へ。毎回思うのだけれど「超かた」より固いのが好みの場合、どうすればいいんだろう。オーダーシート方式だとむしろ上限も規定されている感じがあってかえって書かれていないオーダーを探る余地が狭まる感じがある。地元名古屋は何故か博多ラーメン店が豊富にあって、高校生の頃は「ハリガネ」や「粉落とし」でないと認めなかった。ほんとうはほとんど小麦のままの消化に悪そうな固いのが食べたいのに、一蘭の「超かた」は柔い。

それからfuzkue へ。ここでは新しい本を始めたくて、谷口基『怪談異譚 怨念の近代』と一柳廣孝『怪異の表象空間』を開く。どちらも「無断と土」の註に挙げられていたものだ。かぼすのお酒をお願いして美味しく飲んでいるとうとうとしてしまって半時間くらい寝てしまっていたかもしれない。ひとまず『怪談異譚』を読み終えて満足。「無断と土」は実話怪談として非常に真っ当な形をしているのかもしれない。最終章の『新耳袋』における八甲田山の話を読んで特にそう感じた。怪談とは近代化が産み出した歪み、ある規格化の強力な推進の陰で疎外された個々人の怨念を拾い上げる営為でもある。となると、「無断と土」において最も疎外されている外部──朝鮮人と天皇──についての言及の不自然な欠落は、『新耳袋』の意図的な省略とある程度同じような効果を狙っているのかもしれない。

怪異とは、現状の規格にそぐわない外部のことであり、基本的に規格の周縁、内外を区別するその境界線上で観測されるものだ。その際において、人は現在所与のものと感じているこの世界の構築性を自覚し、その輪郭を予感する。

ここまで、怪異を論じるにあたって表現、メディア、読者(受容者)、権力といった問題に注目してきた。しかし怪異は、より本質的な問題、例えば私たちの自己認識、他者認識の問題とも通底している。怪異に最初に意味付けするのは、当然のことながらその怪異に遭遇した当事者である。当事者は、彼らが蓄えてきた知識に基づき、彼らにとってもっとも蓋然性、整合性の高い解釈を選択する。山深い村里で生きてきた老人が、近隣のとある場所で怪異に襲われたとすれば、彼はそれを狐狸に化かされたと判断するだろう。一方、同じ場所を心霊スポットと認識してやって来た都会の若者たちならば、同じ怪異を地縛霊の仕業と言うかもしれない。怪異の解釈は当事者の個人史と連動する。目の前の意味不明な出来事に対して当事者ができるのは、自分の内部から意味付け可能な知識を引っ張り出すことしかない。人は、自分の内側にないものについては語れない。
だとすれば、江戸時代の代表的な幽霊がほぼ女性であることも、わからないでもない。歴史的に見て、怪異の語り手や書き手は男性側に偏っていた。社会的な強者であり抑圧者だった男性から見て、もっとも後ろめたい存在が女性だったからなのか。ならば、今もなお女の幽霊がポップカルチャーの有力なコンテンツとなっているのはなぜか。さらに、白いワンピースにロングヘアといった容姿が、なぜ彼女たちの定型として選ばれたのだろうか。
怪異は、私たちのイメージの投影として立ち現われる。私たちにとってもっとも恐ろしいモノが、それにふさわしい形を纏って顕現する。ならば怪異は、自己認識の問題となる。またそれはしばしば、自己を定位するのに不可欠な他者との関係性の問題となる。したがって怪異という問題系は、自己とは何かという問いになると同時に、他者とは何かという問いと結びつく。ならば「幽霊より、生者の方がよほど恐ろしい」というお決まりのフレーズは、そのように語る当人の恐ろしさを強調することになってしまう。またこのフレーズは、ただ単に「生者が怖い」という意味に収まらない。私たちが幽霊という表象を纏わせて外部に捨てざるを得なかった「他者」の重みが、私たちを脅えさせるのだ。 この「他者」の背後には、友人や恋人がいる。家族がいる。親族がいる。共同体がある。地域がある。社会がある。国家がある。時代がある。これらと自己とのきしみ、歪みこそが、怪異を生み出す原動力となるのである。

一柳廣孝『怪異の表象空間 メディア・オカルト・サブカルチャー』(国書刊行会) p.4-5

ゾンビものにおいても、隣人というのが何よりも大きな脅威なのだと「早稲田文学」に福田安佐子が書いていた通り、怪異とは外部でありながらかろうじて知覚できる程度に隣接、近接しているものでもある。すぐそばの他者の底しれないわからなさ、コントロールできなさに慄くのだ。ロバートにとってのベン・コートマンのように。すぐそこにある不可知の他者に対して、個人は恐怖と共鳴の同居した奇妙な感覚を抱く。そこにあるのは、決して社会化しようのない固有性が毀損されたことによる怨念であり、怪談に触れる時、受け手は怪異を異質な外部として嫌悪しつつも、そのような存在を外部へと棄て去り、後になって幽霊などとして象徴として包摂しようとする社会そのものに対しても憤りを覚えている。

明治初期に文明開化の号令のもと、神経症の一種へと矮小化された怪異はしかし、西洋諸国の心霊研究の動向を吸収しながら、近代化に馴染まないあらゆるものの代弁として機能しつつ、なにより、あらゆる物事を実務的な合理性で判断する態度を称揚しつつも、同じその口で「神」へと通ずる万世一系の思想を徹底させようと言う明治政府の方針のねじれをも暴露する。

日本の近代の起点としての明治を考えてみると、資本主義という妖怪の外部を想像することすら困難な状況において精神病が広く蔓延し、いよいよ生活者は現実主義という名の現状追認に追い込まれながら、そのくせ不合理なナショナリズムに自閉して具体的にそこにある外部を棄却していく現在の状況と、驚くほど似通って見えてくる。21世紀における怪異のあり方は、いままさに大きな節目にあるのかもしれない、と言う予感が、ここまで俄に僕の関心を捉えているのかもしれない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。