2021.11.16(2-p.166)

大塚英志『怪談前夜』を読んでいる。明治三〇年代半ばから四〇年代にかけては「怪談の時代」であった。田山花袋、柳田國男編『近世奇談全集』の序文を紐解きつつ、柳田と花袋の両者が神秘主義への関心から「怪談」を再評価しようという視座を共有していたのだというようなことが書かれている。

とはいえ、こういった「怪談」への関心はただ明治期の科学的啓蒙への反動としてあるわけではない。「怪談の時代」は日露戦争から靖国神社の成立に至る幽霊の国家管理の時代であったことを忘れるべきではない。死傷者十五万人、出征した歩兵の十人に一人が戦死した日露戦争はそれ故に「死者」を否応なく大衆たちが意識せざるを得ない事態を生んだ。戦死者を靖国神社に祀ることで「幽霊」を国家管理していく思考が制度化される一方で、陰膳を始めとする戦争をめぐるフォークロアが成立する。例えば『遠野物語拾遺』に以下のような日露戦争下の「怪談」の記述があることに川村邦光は注意を促す(『幻視する近代空間』)。
近衛連隊に入営した男が、ふとした事故で気を失い、意識だけが身体を抜け出して故郷に戻る夢を見た。そして再び兵営に戻ったところで目を覚ました。
〈見れば軍医や看護卒、或は同僚の者達が大勢で自分を取り巻き、気が付いたか、しっかりせよなど、言って居るところであった。其後一週間程するうちに病気は本復したが、気絶して居る間に奥州の実家まで往復したことが気にかつてならない。或はこれがオマクと謂ふことではないかと思ひ、其時の様子をこまごまと書いて家に送った。すると其手紙とは行き違ひに家の方からも便りが来た。某日の午頃に妻や娘が川戸で足を洗って居ると、其処へ白い服を着た仁太郎が飛ぶ様にして還って来て家に馳け入った。又母は常居の炉で煙草を喫んで居るところへ、白服の仁太郎が馳け込んで横座に坐ったと思ふと怒ち見えなくなった。こんなことのあるのは何か変事の起った為ではないかと案じてよこした手紙であったと謂ふ。何でも日露戦争頃の事ださうである。〉 (柳田國男「遠野物語拾遺」「柳田國男全集』第二巻)
戦死者の霊が遠く離れた故郷に顕れるという第二次世界大戦でも繰り返し語られる「戦争のフォークロア」である。この場合は戦死者ではないが、出征者が大戦の死者に直面することで「幽霊」を迷信として否定するのではなく、それを受けとめる新たな制度や言葉が国家レベルでも民衆レベルでも必要とされていた。「怪談」はそのような要請の中で復古した側面がある。

大塚英志『怪談前夜 柳田民俗学と自然主義』(角川選書) p.131-132

慰霊。誰が霊を慰めるのか。それは死という、本来共有不可能な絶対的個人的出来事を、いかに制度化し、均一化せんとするかという近代の要請とつねに緊張関係にあるはずだ。それでも死を国家という幻想の共同体のもとに集約しようというところからこそ近代国家というものは成立していったはずだった。僕は近代の国家、医療を考えるとき、「生」というものを社会化しようとすることのおぞましさを思う。本来、「生」は、そしてその剥き出しの形態でもある死というものは、誰か他人の都合でどうこうできるものであってはならない、という強烈な違和感がずっとある。死は管理できない。死は包摂できない。かといって、死は境界線の彼岸にある異界なわけでもない。死はただある。そこかしこに。それを画一的に包摂し同時に隠蔽する社会という装置。幽霊を考えることは、決して道楽で済むものではない。死者のことを考えるとき、そこにはつねに他者を社会化せんとする欲望の凶悪さが潜む。幽霊や怪奇が恐怖の対象だとするならば、ほかならぬこの自身の欲望の写し絵として恐怖するのではないか。

そして、ここで社会と対立するものは絶対的不可侵な個人としての「私」ではない。なぜなら、文学における「私」の発見と、政治的フィクションとしての「社会」の成立は、どちらか一方が欠けては実現しえないような相互依存の関係にあるからだ。明治期の文学運動が、当時の政治官僚との近接のもと「私」を作り上げ強化していく流れは、西洋的な構築物としての「社会」を成立させるための大きなうねりの中で理解するべきものなのかもしれない。怪談を入り口として明治という時代を検討していくと、このような予感が形をなしていく。怪談がなかば無自覚に担わされてきた近代の相対化という役割はやがて、近代国家を基礎づけるための物語としての民俗学、近代的な社会システムへの反動としてのスピリチュアリズム、そして両者のあいだで苦悶する「私」に過剰な特権性を付与する私小説的環世界へと分岐していく?

明治期の怪談を検討していくことで、社会と「私」という二項を無効化し、べつのやり方で現状を分析するためのとっかかりが得られそうな予感がある。久しぶりにずいぶんといい加減で怪しいことを書いている。新しい概念を自らに導入する際、まずそれは言語として表されるが、言語はつねに実体を求め、しかし実際のこの身体が晒されている現実においてはまだその言語上においてかろうじて仮構されるものの対応物など存在しない。言葉にはできるのに、そこにはない。この言語がせっかちに見せる予感を、ただの妄想と片付けるか、ありうべき現実の予見と信じてその実装を試みるか、その見極めはいつだって困難で、だいたいにおいて見極められたらどうというものでもない。

いまここにないものを節操なく言葉の配列ゲームで生み出していくだけというのは虚しい。けれども、幻視することなしに、実際にこうだと誰かに見せるようなモノは作りえないような気もする。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。