2022.07.30

会社での知的生産が著しく低下しているので──知的生産という言葉を僕は皮肉で使ってますよ──、あたらしい道具使ってみよー、とWorkflowyを導入してみる。

日記のようにだらだら書く使い方に慣れていると、全行に意味と機能が付与され、一行空けできないのがうざったくもある。思考が悪い方向に制約される感じ。慣れるか?

とりあえず所感を自由連想で書き出していく。それこそ「一行空けできないのうざい」「慣れるか?」などどうでもいいことまで書いていく。箇条書きの窮屈さの中で、貧しい言葉をとにかく量産していく。

「項目の入れ替えできないの?」と書かれ、検索され、各ショートカットを覚える。いつの間にか「どんどん使えるようになるの楽しい」と書かれている。日々のタスク管理と、私的な思い付きと、労働の情報整理とをミラーで大分類をつくって、毎日のメモをつど振り分けていく運用にしてみる。とりあえずなんでも書き出す。単純な想起をタスクとアイデアと労働とに振り分けて、のこりはそのままログとして残しつつ、さっさと完了にして、画面が混んできたら非表示にしておく。

日々の運用が見えてきたのでミラーの大分類を配置したテンプレートを作り、日々そこから一日のワークスペースを立ち上げられるように整える。どんどん使いやすい、いい場所になっていく。設営、模様替え、そういうささやかな建設作業の心地よさ。どんどん空間が自分にとって居心地のいい場所になっていく素朴な楽しさ。

箇条書きの制約について考える。箇条書きはしゃきっとする。言葉の余剰さがそぎ落とされ、純度の高い機能へと研ぎ澄まされていく。箇条書きは言語の労働に最適化した使用法なのだな、と納得する。僕が苦手なわけだ。知的生産の技術とは、箇条書きである。そう書いて、試しにShift + Enterを押下して注釈のブロックを表示。あ、もしかしてこれでだらだら書ける? 改行も、できる。書けそう!

Notion に移行する用の長めの蛇行する文章もストックできるとなるとようやくWorkflowy の役割というか、自分の中での使いこなしのイメージが湧いて、もうだいぶこのツールのことが好き。しかしこれはiPhoneからは非常に使いづらそうで、基本はPC からの使用だろう。簡単なメモを投げ込んでいくことくらいはできるだろうが、醍醐味である階層化はPC からでないとほぼ不可能だ。僕は普段からPC であれショートカットはコピペと取り消しくらいしか使わないというか、それ以外のものに便利を実感していないのだが、Workflowy に関してはショートカットの威力がものすごく、とにかくキーボードだけで完結させる気持ちよさがよくわかる。こういうことだったのかあ。Notion も、ブロックの順番の入れ替えはいちいち掴んで運んで、とやってしまうのだけど、ほんとはもっとスマートなやり方できるんだろうな、と思いつつ、パラグラフの移動みたいなのは僕は手でいちいち掴んで運ぶという身体的な行為自体にけっこう意味を感じていて、だからこれはやっぱりショートカットしたくない。なんというか、文字の運用の感触を手書きに近づけたい場合というのもある 。Workflowy は箇条書きしかできないおかげで、はじめからデジタルに分割された思考法に切り替わって、そうなるとショートカットが活きてくる。これは面白い発見だった。身体的で抽象的な思考の整理はなるべくアナログにちかい感触が欲しく、具体的な情報整理はなるべくデジタルなほうが気持ちがいい。

発売日にそわそわと買って、一日20ページくらいのペースで『水平線』を読んでいる。久しぶりにこういう大事に仕方をしている。一気に読みたくない、なるべく長く読んでいたい、というような。

このとき、まだ海外旅行の経験もなかった私は、時間的にも距離的にも遠くにあるこの島を、自分がふだん過ごす毎日と接続しない、結構な非現実感を伴う景色として眺めていた。その特別さを、自分のなかのどこに落ち着ければいいのか、そんな場所が自分のなかにあるのか、よくわからない。しかしそこで陳腐で典型的な感傷や激情を吐いてしまうダサさや安直さをダサいとか安直だと思う分別だけは当時の私にもあって、というかあったのはそれだけかもしれなくて、自分の先祖が死んだ土地を訪れ、その景色を見て浮かぶ人間の心情なんて陳腐な定型をなぞるほかない。飲み屋の便所で目にする詩のような言葉が浮かびかけては、それをひとつひとつ、つぶしてつぶしてつぶす。それでもなにを見ても特別な、旅先特有の過敏さでいろいろの感情がわいてきて、けれどもそれに形を与えようとすると、とたんに便所の詩になる。 便所の詩にしかならない。窓の外を見続けながら、この日差しの強さ、色の濃さ、風の生暖かさに、無人の時間の長さを重ねることを試みる。重ねたところで、なんの言葉も出てこない。無人の時間というドラマチックな言い方がすでに嘘で、実際には戦中戦後には米軍の返還後から現在に至るまでは自衛隊のひとびとが、在島し続けている現実がある。 

滝口悠生『水平線』(新潮社)p.60-61

どの小説にも通底するこの態度が好きだなあ、と思う。そしてそのすぐあと、老人たちの話の含蓄や時間の厚みに感心し、「便所の詩、便所の詩、と勢い任せに蔑む自分が間違っているのかもしれない。私も毎日便所に行くし。」などと移ろって、そのまま便所の話が続くのもいい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。