人間が画一的な存在だと信じているからマニュアルが存在するわけじゃん。
昨晩の奥さんが何気なく口にして、重要っぽいのでメモしておいた言葉。マニュアルというのは、大体の人間は似たようなもの、という信念があるから成立するものだ。ビジネスも、自分が必要だと思うものは他にも必要としている人がいるという信頼がなければ始まらない。社会をつつがなく機能させていくための語彙や思考法は、個人の固有性ではなく、人の画一性を基礎に置いている。それ自体は悪いことでもいいことでもない。誰かと共にやっていくというのは、それぞれが違うことでなく、お互いに同じようなものであるという面を見ることだというだけのことだ。
マニュアルがなければ共にやっていくことは困難だし、マニュアルがすべてだと錯覚してしまえば個々人の生活のディティールは取り零されてしまう。画一化を前提とし、ひとつの原理に包摂しようとする社会と、固有であり、統一感のないブレブレの個人との緊張関係。それはたぶん解消されることはなく、解消されたと思っては危ないのだと思う。
気がつけば来年のことを言ったところで鬼の口角も微動だにしない時期になっていて、この数日は多くの時間を2023年のことを考えたり話して過ごしている。ようやく毎日の日記の表題に2022と書くことに慣れてきたのに。なんとなくで来年の手帳をポチった。来年はリュックをすこしずつ軽くしたいから、最低限の機能に特化した薄型のものを選んだ。きょう返すべきメールをあらかた返したから、今年の楽しい仕事はこれでほとんどおしまいかもしれない。来年はもっと忙しく、複雑にこんがらがったスケジュールになったらいいな、とほのかに思い、まじで? とすぐさま打ち消した。
労働への意欲をどうにか奮い立たせたい、それは無理でも、社会への関心をちょっとでも取り戻したい、と思い、オカルトやキリスト教やラディカルな意志を一旦わきにおいて、『tattva』の最新号を頭から読み出す。するすると読めて、最近はつっかえながら遅く読むものばかりだったから速さが気持ちいい。
奥さんは再び『Slay the Spire』にハマっていて、退勤後ずっと遊んでいるから僕はその横に寝転んでソンタグを読んでいた。二人でわーきゃー遊んでいたゲームが終わってしまうと、ふたりで遊ぶというのをどうやっていたんだか、いつもわからなくなる。