2021.01.19(1-p.365)

ミムロ犬さんという方が『プルーストを読む生活』についてツイートで

普通なら本を読まなくても食っていける人たちがそれでも豊かに読んでいきたい、ずっと続けていきたいと思ったときにその道筋を示すかのような本でもある

https://twitter.com/BERBERZAUG/status/1351464138480836611?s=20

と書いてくださっていて嬉しい。それで僕は次のように書いた。

僕は「本を読まなくても食っていける」という意味では本は不可欠でもないし、じっさい本を読むことで年収や地位が上がったりも特にしないんですけど、それでも豊かに読み続けていきたいと思っているし、だからこそ読んだ端から忘れて何のためにもならない楽しいだけの読書にこだわっているとも言える。

僕にとって本は生存のためのものではなくて、そうでないからこそ生活になくてはならない楽しみなんだと思っていて、そうやって狭い意味では不要不急のものをどれだけ真剣になくてはならないほどのものとして扱っていけるかというところに、大袈裟に言えば僕という個人の尊厳みたいなものを託してる。

僕は日記はただ毎日読んで書いてをしているだけなので、例えば毎日あたりまえに柔軟体操を行う人が体操の実施を当然に思うように、なんでもない日課としか思っていない節があって、これを作品として世に出すのはなんでだ、という躊躇いというか戸惑いは常にある。それでもやはり『プルーストを読む生活』は作品になったんだなと思うのは、こうしてはっとするような感想をいただくようになったからで、本の形で、僕のことを知らない人たちにうっかり届いて、作品として読まれなにか心地の良い響きのようなものやがさついた違和感のようなものを残したりしたのだとしたら、それはやはり作品としかいえないなにかだろう。

僕は毎日書いて、だからそれは全身全霊を傾けていてもいなくてもやはり少なからず僕の自分自身としか言いようのないなにかが文字には乗っているだろうが、それでもいただく感想に対しては僕への感想とは全く思わず、ただ本に対しての言葉として読む。日々書いていた時は、やはり自分のことを判断されたという思いがなかったとは言えないだけに、こうして本の形になってからの、形を与えたからこそ自分とは違った物体として視認できることの意味はやはり大きくて、作品というのは作り手の意図なんかとは関係なしに動いていくものなのだ。だからこの本の形が褒められると僕は中村さんと平本さんが褒められたように嬉しいし、売れると松井さんが褒められたように嬉しい。正直僕自身が褒められたという実感はあんまりなくて、だからこそ屈託なくどんな感想でも嬉しがれるのだと思う。そして屈託なく受け取った贈り物のような言葉に誘われるように、僕は僕に問い返すことになる。僕は今でも、ちゃんと豊かに読めているかい?

自分の書いたものによって追い詰められるというほどではないにせよ、なにかしらイメージの固定化の必要を感じないかというと感じないわけでもないが、僕は本を読むのが楽しくなくなったらあっさり読むのをやめる自信だけはいつでもあって、だからまだ大丈夫だと思う。義務感や他者に対する広告のような気持ちで本を読み出したらもう終わりだ。しかしたぶん『プルーストを読む生活』の頃から、僕は別に本の話ばっかりしているというわけでもなく、節操なくなんでも摂取しては書いているようにも思うから、そもそも読んでばかりいるというのが嘘なのかもしれない。しかしそれは毎日あたりまえに柔軟体操を行う人が体操の実施を自分では当然に思っていても、僕のような人間からすると毎日体をいっぱいに動かせる人というのは信じられないような存在だというのと同じように、見る人から見れば僕はずっと本を読んでいるように見えるというだけかもしれないが、当人が当然のことは当人にとっては当然なのが当然なのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。