引っ越しのことを考えている。同居人が出ていくので、三人で分担していた家賃を二人で払うことになる。三分の一の負担増ということだ。いまくらいの広さを維持しつつ家賃の安いところに越すか迷う。たとえば2万くらい安くするとする。敷金礼金や引越し費用を合わせると、ざっくり40万くらいだろうか。この40万を回収するのに20か月。家賃のぶんのお金の節約が利いてくるのは一年九カ月目以降ということだ。3万下げれば半年くらい早めることができるが、都心から離れればそれだけ交通費が嵩張るわけで、この3万が有効でありうるかはなかなか判断が難しい。こう考えていくと、家賃よりもべつの判断軸を持ってきたほうが話は進みやすいような気がする。部屋数を増やしたいとか、近場で大半のことは済むようにするとか。腰が重いのは、僕がいまの家と土地をわりあい気に入っているというのも大きいだろう。
蕎麦屋で蕎麦を食べると気分は上がるのだが腹は満たされないので結果的に午後の気分が落ちがち。そう思ってセットにしたのだけれど、天丼に口の中血みどろになるほどのザクザクを期待していたことに、ぺしょぺしょの食感にがっかりしてから気がついた。
生活というのは、基本的に保守である。日々の習慣は安定して円環的な時間を必要とするからだ。毎日の生活すら覚束ないとき、そもそも維持するべき安定がないのだから、まずは自分たちも安定できるような社会をくれよと革新を求めることになる。誰かの革新とは誰かの安定への権利要求であり、すでに安定しているべつの誰かは、安定の拡大を共に求めてより一層の盤石さを実現するように働きかけるほうが有効であると考えている。現行の政治が従来の安定を根扱ぎにするようなことばかりするようなとき、生活の保守性とは政治の革新として表明されるほかない。生活の上では保守的でありつつ、政治の現場では革新を支持するというのはこういうことではないだろうか。このねじれが直観に反するようで、長い間うまくイメージがまとまらなかった。
とにかく日々のごきげんを絶やさずに。穏やかさを誰にも明け渡さないこと。
僕にとって読書というのは保守性とは馴染まない。読めば変わってしまうからだ。読書は心身に負荷をかけて自分の形を歪ませる遊びなので、なんの苦労もなく読めるものの何が楽しいのか僕にはわからない。ただ自分の現状を慰撫するだけなのであれば本でなくとももっと手軽で都合のいいものがたくさんある。僕が本を好きなのは本が僕にとって都合が悪いというか、僕の都合なんか知ったことではないところだ。コミュニケーションではなく、その不全や不可能を思い知るためにこそ本はある。だから著者との疑似的な人間関係を錯覚させるような作品は基本的にあまり好きではない。共感というのは不潔だ。僕は理解できそうもないことを、どうにか文字通りに受け取ってみるという面倒くささにこそ関心がある。言葉を伝達の道具から信の基盤へと取り返す試みといってみてもいいかもしれない。
僕が日記を主だった書く場として展開する限り、僕はとにかく読む側に負荷をかけるような、ありていに言えばすこし読みにくい文章を書くほかない。すんなりと受け取ることができてしまう他人の日記など面白くないだろう。言語体系に馴染まない個人の環世界の野蛮さをある程度そのままに放置すること。そのうえで、文法規則や語義を逸脱することはないように書くこと。まともに言葉を扱っていれば、読もうと思えば読める程度に書けてしまう。この書けてしまうギリギリの地平で書くこと。
道具をその機能を損ねない程度に無茶な使い方をする、この塩梅が肝腎で、読む気もしない文章というのはそもそも文法がなっていなかったり、語彙を独自に運用してしまっていたりする。ある程度の破調は戦術としてありうるが、基礎が破綻していてはなににもならない。規則に則らないテキストは原則としてテキストとして失格であり、規則と張り合えるだけの強度をもつ別の論理があってはじめてぎりぎり有効性を主張しうるものだ。へたくそな人はそもそも読めていないから書けない。まずは書いてあることを書いてあるままに読むことからしか始められない。まともに読んだうえで、無茶をして脱線させる。順番はこれしかありえない。読めていないことすら分からない人も多くいる。僕はそういう人には関心がない。ないのだが、こういうことを書く場合、励ましようもないへたくそまで励ましてしまいそうだからいちおう書いておくのだ。この段落は本来であれば余計だ。
出社すると機嫌が悪い。そもそも通勤電車が最悪だし、事務所内でマスクをする人が減っていくのもかなり削られる。僕がいないあいだに奥さんがどんどんゼルダに熟練していくし、そうなると僕はどんどんつまらなくなる。退勤後に友田とん「サミットに行く、プルコギを作る」、わかしょ文庫「空飛ぶごはん/大田区の魚千匹」、碇雪恵『つぶやかなかったことばかり』を読む。