2023.05.25

山本浩貴『言語表現を酷使する(ための)レイアウト──或るワークショップの記録 第0部 生にとって言語表現とはなにか』(いぬのせなか座)を読む。面白い。これまで読んだ諸作品のよさを、親切に解題してくれるようなテキストで、ですます調が実現する冗長さによって密度がすこしだけ緩和されて、じつに読みやすい。この書き手の愚鈍なにわか読者として、あと一歩理解が及ばなかった制作上の問題意識のはじめの一歩があっさりと簡潔に提示されていた。ああ、そういうことだったのか、とも思うし、遡及的に各作品の記述のあれこれが腑に落ちる。この状況下で日記をわざわざ公開している身として、ある種の応答の必要も感じたが、この強度に対応できるだけのものはないな、とも思う。

たとえば随筆や日記の持つ問題──生活や人格を素朴に言語化し、資源として流通させるというのは、どこまでも資本主義の論理に回収されていくだけなのだが、これは規模によるところでもあると考えていて、大型資本に相手にされない程度であれば健康でいられるかもという楽観がある。大きな版元に売り渡さず、自分で自分を切り売りするようなやり方であれば、零細商人のような身振りとしてインフォーマルな経済を形成しうるみたいなこと。しかしこれは、大手チェーンに対する個人商店の問題とも似たある種の欺瞞にすぎないようにも思う。

ソワレに観劇の予定だけがあるような日、明るい時間帯を持て余してうまく過ごせないことが多い。きょうは夕方まで編境の店番をして、木曜だからそこまで人は来ないだろう、楽しみにとっておいた原稿を進めることにした。一本はだいたい出来上がっていたのでiPhoneで見直して微調整。もう一本はポメラに仕込んでおいた下書きをもとに一気に書く。規定の字数の倍くらい書いて、ごりごり削っていく。僕はこの引き算の時間がいちばん好きかもしれない。散らかして、片付ける。するとそれなりのものが出来上がる。日記は散らかす場。発散だけして収斂させる必要がない。作品というのはどれだけ拡散を志向するものであれ、やはり密度のために圧縮する操作が不可欠であると思う。閉店までに納品までもっていけたのでるんるんで出かける。

神保町に出る。どこで買うか悩んでいたが、東京堂書店での勢いに乗ることにする。今週も一位だった。『新古書ファイター真吾』。ドームシティのスタバで読みながら奥さんを待つ。入間ちの舞台。宮崎湧はじめての座長の仕事。シアターGロッソはもともとヒーローショーの現場らしく、天井の高さとそれに対して狭い間口、客席の傾斜のつきかたが独特だった。だからなのか、空間の使い方がずいぶん他の劇場と異なる。とにかく縦のラインが強い。期待値は40点くらいだったが、40点くらいの作品ではあった。演出が仕事していなくてモヤモヤする。久しぶりに、自分が演出するのであれば美術や脚本がこのままであったとしてもこのシーンを数段面白くできるな、みたいな気持ちになった。

飲んで帰るとものすごく眠い。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。