事務所に行くのが嫌すぎて駄々をこねる。ちゃんと行く。このちゃんとしてしまえるというのがよくない。この一週間、隙あらばコーヒーゼリーを食べていて、急に好物になっちゃってる。きのう薬局に行って、漢方の処方を変えてもらった。いま気になっていることを伝えると、ああ、ほんとうにまったくちがうものになりますね、と言われる。体のようすは変わっていく。
Twitter とIFTTT の連携が終わったので、エゴサを自分で励む必要がある。いつだか友田さんが、エゴサは朝昼晩やっても夜にひとまとめにしても結果は変わらないのだと話していて、その通りだと思う。僕は朝昼晩やってしまう。しかしこんなことしていないで本を読みたい。本が読めないような体調だからこんなことをしている。SNSは元気いっぱいのときだけにするほうがいいのだが、元気なときは本を読むのだし、愚かなことに心身に余裕がなくて暇だけがあるときこそ捗ってしまうのがSNSなのだ。あとFGO。もう僕のなかでこのゲームは前回のネロちゃまの物語で堂々の完結を迎えたのだし、これ以降は蛇足のはずなのだが、なぜか今回のイベントも周回に励んでしまう。思うに、ただ指を動かかすだけで予期した通りの動作が返ってくるというのは、ちょうどよく思考を停止できるから助かるのだろう。なにも考えられないし、退屈の憂さを能動的に晴らすような体力もないようなとき、ひとはスマホゲームの単純作業の反復に忘我する。そうやって頭を休めて、すこし余裕を取り戻すとSNSで殴りつけられるような刺激を得て思考が活性化させがちなのだが、どちらもあまりよろしいことではない。そこにはあまり栄養がない、それどころか、われわれのほうが養分として活用されているのだから、などと陳腐なことしか考えられない。
六月には関西旅行があるからというのもあるのだけれど、なんだか人に会う約束ばかりしていてすごい。僕はこんなに社交好きだったのだろうか。家で奥さんとずっと一緒にいるのがいいと思っているのに、なんだかんだで嬉々として外に出かけていってしまうのだから不思議だ。一カ月単位でカレンダーが埋まっていると不安になる。こんなにずっと動き続けられるだろうか。そんな状況がもう四カ月くらい続いていて、動けちゃうんだ、と怖い。なんなの、この人。なんかずっと動いてるんだけど。楽しみな予定がいくつもあるのは悪くないことで、一個の楽しみに賭けすぎて重たくなってしまうようなことを回避できる。それぞれを全力で楽しみつつも、どこか気を抜けるというか、べつにも拠り所をもてる。これは健全なことであると思う。これはてきとうに流すということではないのだが、そういう面もあるだろう。真正面から全力で向き合うだけが交流ではない。むしろ半身でさらっとであるからこそ関係できるということも多々あるというか、むしろそういうほうが大半ではないか。僕はこれがなかなかわからなかった。一回一回ひとりひとりとの約束に全霊をかけて楽しみにしてしまうところがあった。それも外で人と会うような約束が月に一回あるかないかであったからだろう。今は週に一回歩かないかという感じで、これは僕には充分以上に多いので、妙に張り切ってしまうようなことは減った。遊んでくれる人がいるというのは、うれしいな。