2021.02.11(2-p.16)

『史上最大の革命』をゆっくり読んでいる。一息に二〇ページとか進めるような本を読む時、僕の中の田中龍之介がこう言う。読めるまで読めば読める。しかし歴史は、一冊では足りなくて、何冊も何冊も暗中模索状態で読んでいって、だんだんと知っている固有名詞が増えていった頃、ようやく一冊めに読んだものについて読めるようになるようなところがあって、とくにヴァイマル共和国は僕はほとんど未知の国だった。そもそもヨーロッパというか大陸の歴史を読む時思うのは、国家というものがどれだけフィクショナルなものかということで、ドイツなんかは特に、現在のドイツを想定して読むと間違いなく迷子になる。国家というのは、二度の大戦でようやく確固たるものになる概念なのかもしれない。だから現代の感性で国家を軸に歴史を捉えようとすると多分間違える。そのフィクションがどのように立ち上がってきたかを見るべきなのだ。国家を一個の単位として歴史を眺めるというのは、近代史以降ようやくわかりやすくなるものだという予感があるが、ぶっちゃけ僕はとても不勉強なのでここまで書いたことは全部とんでもないかもしれない。こんな日記は信用せず、おのおの勉強しよう。

とにかく、読めるようになるまで読めば読める、というのは僕はいつでも思っていることで、本が読めないのは本を読むのに必要な語彙や文脈の知識が足りていないからだ。しかしもう脳細胞もだいぶ不活性なので、詰め込むように覚えていくのも無理だから、結局はよくわからないままに読んでいってしまう方がいい。だらだらタイムラインを眺めているだけで世界の裏側の仕組みが理解できてしまうような時代だ。よくわからない本を眺め続けて、あ、なんかこの前も見たな、みたいな文字列を増やしていくのがいい。五輪の会長の名前やぎこちないカタカナのビジネス用語なんかよりも覚えておいた方がいい言葉はいくらでもある。電車の中の広告や、醜悪なニュースは嫌でも目に入ってくる。そういうのでない、未知の文字の氾濫にわざわざ身を晒して溺れかけることは、べつの泳ぎ方を覚えることだ。

こういうことを書くとき、自らの老いを感じる。というか、世の成熟してなさを嘆くとき、二〇代前半まではまだ無力な被害者のような気持ちでいられたが──それだって遅すぎたのかもしれない──今となってはただの怠慢なおっさんの戯言にしかならない。説教してないでお前が動けよ、と僕の一〇代が僕を見下すのがわかる。最近よく思うのは、もう僕は弱くも少なくもない側にいると思っていた方がいいということ、自分を無力などというのは欺瞞だとつねづね思い返すべきだということだ。しかしじっさいのところ、今ほど自分のことを取るに足らない、ちっぽけなものに過ぎないと痛感している時期もなかった。これは謙虚さではない気がする。よりタチの悪い傲慢さが芽生えてきている気がしてならない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。