伝達のために書くというよりも、考えることと書くこととが分ちがたく結びついている。書いていく行為が残す文字列が、事後的に考えめいたものになっている。伝達のためにはこのような思考とほとんど統合で結ばれた文字列を整理整頓する必要がある。
僕にとってSNS への投稿やこの日記は、ものを考える場であって、情報を伝達する場と捉えることがどうしてもできない。だから文字をとりあえずてきとうに並べてみながら何かが考えられるのを待つという段階でそのまま公開してしまう。
たとえばTwitter と呼ばれていたところが、そのような伝達されるには粗すぎる文字の散らかりを許容するものだと感じられた時期もあった。いまではすっかり広告の場で、考え終わったもの、思考が情報に整えられきったものたちだけがそれなりの顔をしていて、ラフな思考の痕みたいなものまで、整備済みの意味を励ます情報として取り込まれてしまう。情報と、それをいい加減に支える気分のようなものとしてだけ文字列が機能する場で、だらだらと散漫な文字の散らかしをすることはできない。特に二〇一一年の震災前、Twitter は「ここにある文字列のどれもこれも、別にあなたに話しかけてるわけじゃない」という場であり、エアリプへの不安は自意識過剰などといなされたものであるが、いつしか「あれもこれも、ほかならぬあなたに言ってるんだ」というようなことになってしまった。そういう雑な印象がある。誰もが誰かの考え以前の文字の運動を、自身に関係する意味の連なりであると受け取ってしまう場所。それはつらい。
書かないと考えられないから何かしら書きたいのだが、自分の場合、このような書く=考えるは、手元のメモのようなものではうまく動かず、多少それを外に出している感覚がないといけないらしい。誰ともなく誰かに向けてぶつくさ独り言を言っていたいという。迷惑な話だ。
日記への関心が薄らぐというか、日記に白けるというのは、日記として配置される文字たちが思考の運動ではなく、情報に奉仕しだしているということだ。誰かに伝えるための道具としてだけ言葉を使うとそれは労苦になる。そんなものは給料の出る時間に文書として作成すればよいものだ。読まれるものは読まれることで読んだ体に何を思い出させるかだけが面白くて、内容だとか目的だとかは心底どうでもいいものではないか。そんなものがあるかのように書こうとするから飽きるのだ。どうでもいいことを書け!