ヘッドホンで音楽を聴くと聴きとれる音の数も層もまったく異なることが素朴に面白くて、カーペンターズやデヴィッド・ボウイを聴きながら作業。音だけでこれだけ空間をうろつくような楽しみ方ができてしまうと、読書との共存は難しそうだった。書かれた文字列からどんな感覚を再現しているかと考えると、僕の場合は空間のような気がする。演劇を観るときも、映像を楽しむときも、僕はおそらくそれをどこか彫刻のように、平面でなく立体で知覚し読み取っている。読書にしても議論や筋が単線的で平面に留まっていると退屈なようだ。平面上に指示された記号に基づき、奥や手前、浅さや深さの次元を意図的に錯覚すること。そのような錯覚のコントロールを僕は嗜好しているのではないか。ヘッドホンでの聴取は、それまでのぺっちゃっと潰れた音でのそれと異なり、音の遠近の差異が際立つというか、僕のような音痴でもはっきりわかるものとして現れる。そうなると音楽はテクストと同程度に読解可能なもの、それだけで注意に値するものになって、すごい面白いのだけど、この体験は読書と似たところにあるので干渉してしまう。要は気が散る。だから一個ずつしかできなさそうで、これは発見だった。読書において文字を追いながら頭のなかで音声が流れているというのはよく聞くけれど、僕としては抽象的な空間のようなものを立ち上げているような感覚が近い気がする。音がないわけではないけれど、それはこの地点からの遠近や上下を推測するための要素に過ぎないというか、そんな感じ。読書しながらおしゃべりはできる。その延長でポッドキャストもある程度聞きながら読める。これはポッドキャストがおしゃべりの延長にあり、鑑賞体験ではないからだろう。空間的に作品を鑑賞すること、おしゃべりのような情報の交換、そして何かを書くようなアウトプット、これらは質の異なった行為であり、並走が可能だ。だからこの日記も今ヘッドホンで音楽を聴きながら書いている。しかしこの状態で読むのは難しいだろう。同質の行為を二つ以上同時に実行することは、かなり難しい。少なくとも僕にとっては。このあたりの行為や認知の特性の個体差について、人とあれこれ話すのは面白い。
『ニセモノの錬金術師』のラフ版第一部を読み終えて、あまりの面白さにブラボー!と拍手をした。すーごく面白かったな。既知の組み合わせで見たことないところまで行けるというのを教えてくれる。その世界内での物理法則やルールが厳密に守られる話はいいな。あと性欲の扱いがよかった。過度に扇情的になるのでも、露悪的になるのでも、ロマンチックになるのでもなく、あくまで人間の欲望のひとつとして扱われ、したたかな計略の道具にもなれば、どうしようもなくとらわれる足枷のようなものにもなる。商業版が完結する頃にはあらかた忘れているだろうから新鮮な気持ちで読めるだろう。楽しみだ。しかし性欲との距離感がリッチな絵柄だと変質してしまいそうな気もする。漫画としての快楽は僕はほとんどコマ割りとカメラの位置の選択のようで、それはラフ版で充分だったりむしろ際立ったりもするようだから、どんどん売れてアニメ化して欲しい。
夕食は昆布締めの白身魚とかぶの鍋。とても美味。豚肉と豆腐も追加しちゃう。締めはうどん。『Chants of Sennaar』を遊び終える。面白かったし好みだったけれど、最終盤の演出はあまりうまくいっていない気がした。なんというか、わからなくはないけどわかりにくい。モヤモヤが残ってしまってラストに示されるものへの感動が薄れてしまう感じがある。