体調を崩す前から日記のリズムは乱れていて、当日の夜書いていたものが翌朝以降に持ち越されることが常態化してきた。それはそれでよい。
八時起きに戻して問題なさそうだったので朝から『ラーメンと愛国』を読み始める。納豆とソーセージで朝食。そのまま時評の原稿を整理して、納品。それから在宅で労働。臥せったあとの普段通りは慣らし運転のようにして恐る恐る始まる。ほんの一日の中断でも再開には恐ろしさがある。いつものようにあっけなく始められ、すぐさまなんでもないことになる。なんでもないかのように平常の暮らしを遂行できてしまうことに慄きたい気持ちもある。
快気祝いに楽しみにとっておいた小説を読もうと『生きる演技』を手に取り、一気に読んでしまう。どっと疲れる。『ほんのこども』の異様に高密度に錯綜した語りのように体に直で響かせるような文字の運びは、ほんのりポップで読み易いようなものとして調整され、それでもやはりずんずんくるから疲れる。整序された内面というフィクションへの苛立ちを隠そうとしない一文単位でのうねりと接続のぶっきらぼうさは、部分を凝視すると野蛮なようでいて、全体を見はるかすと精緻なようでもあり、しかし読み心地としては悪酔いに近い。内面ではなく生理感覚で駆動される小説で、だからいま読んでいる文の次の瞬間に起こる事柄は誰にも予測することも意思することも困難で、ただそのようになってしまう。言葉はそれを事後的にまとめることさえせず、ただ翻弄されるがままにとどめられ続けるその緊張感がものすごい。読み手も書き手も語り手も、等価に小説に振り回されるかのようだった。現代の高校生の私生活という狭苦しくみみっちい世界が、観念的な誇大妄想を経由せずに、じかに、フィジカルで戦争責任と連続しているそのスケールの大きさの好ましさや、多義的な演技のそれぞれについてや、空間や幽霊のこと、「家」という制度との緊張関係についてなど、しゃらくさい批評めいた語彙でとびつきたくなるモチーフと構造で充実してはいるけれど、まずはただ浴びるように読んでくらくら眩暈がするようなこの身体的なくたびれそのものを味わいたいような気がする。町屋良平の近作はまずなにより肉体的な経験であり、平面に印字された文字による表現がここまで直接的に心身に作用しうるのだということに衝撃を覚える。破壊衝動にも似た苛立たしい感覚過敏が喚起され掻き混ぜられ疲労困憊するから鬱陶しいのだが、どことなく気持ちがいいからまた読みたくなる。