新年度の気忙しさもあるが、そもそも気がついたら今月は休日のほとんどに予定があり、カレンダーの余白に嬉しさを感じ、埋まれば埋まるほど具合が悪くなる身としては月初からこの為体とはなにごとかと恐慌をきたしそうだ。基本的に毎朝たてるような日次の計画はDynalist、タスクはTodoist。週の詳細なスケジュールと月跨ぎの大まかなプランは手帳、月の予定はGoogleカレンダーと粒度をわけて管理していて、ひとまずなるべく目先のことをひとつひとつやっていくように注意の分散を防ごうと工夫しているのだが、さすがに最近は中長期の企画の並走が混んでいて、いくつかすでに取り零しもある。どれだけ巨大なプロジェクトであっても、じっさいの作業としては単一の動作にまで細分化されるはずで、そのような誰でもできるほどにまで分解された動作を頭も使わずに順序通り行っていけばあらゆる仕事は終わる。そのはずなのだ。だからもうだめぽよ、と思う時、それは塊の大きさに圧倒されているのであって、落ち着いて手に負える規模にまで小さくしさえすればあとは達成可能な用事になる。しかしどれだけ細かくとも積もればその量に気圧されるでしょう? 労働の用事はつねに微塵にまで細かくしてなるべく地力も体力も気もつかわないで済むようにする。とにかく労働時間外にはすっかり忘れてしまうというのが僕にとっての最大の成果であり、時間内にどれだけ瑣末なものにまで切り詰めてしまうかが大事。しかし生活はそうもいかず、つねに心配であるし、どんどん新たな塊が供給される。それらを細かく砕いているうちに次の塊がやってくる。きれいさっぱり暇で仕方がないというのはなかなかない。だからこそ、生活も忘れて暇するような技術も必要で、しかしこの技術には図太さを成り立たせるだけの元気がコストとしてかかる。春に元気なわけがないのでとにかくあっぷあっぷなのである。
宿題から目を逸らすように、スケジュールの管理は早々に諦め、とりあえず返せるだけのメールを返し、作業リストを潰し込みながら『不適切にもほどがある!』を一気見する。いろいろと脇も甘いし、看過できない瑕疵も多いのだけれど、僕はこのドラマを嫌いにはなれないな、と思う。ラッセンのような庇護欲をそそる。しかしそのよさを言語化する余力はない。いちばんの問題は、このドラマにはぼんやりとした悪意を持ったものとして他人が描かれがちで、そのような外部は、楽しいホモソーシャルを描いてきたクドカン作品ではなるべくないものとされてきた要素であることだろう。自分たちに優しくない外部に対して排他的に振る舞い、外の「あいつら」を相手にしないでひたすら「うちら」を思いやる。そのような閉鎖性にこそ、友達の少ない郊外の少年である僕は救われていたのだと思う。SNS は「あいつら」を見つけ出すことで「うちら」を作る機構である。だからSNS が普及して以降は、高校生の頃に見ていたような「うちら」だけで完結するような世界を成立させるのが難しいのだろう。クドカンドラマは俳優がはしゃいでいるのが楽しい。「うちら」だけできゃっきゃと遊んでいるのを見るだけで嬉しい。そのようなものであり、今作は「あいつら」からの目線を内面に有してしまったせいで、そのような「うちら」の華やぎが弱まってしまったのではないか。「うちら」だけの世界を微笑ましく見守っているうちはよいのだが、「あいつら」を出されると、視聴者である我々もまた「うちら」にとっては外部であり、仲間はずれであるということを直視せざるをえなくなる。それはなかなか寂しいことだ。あるいは、そんな「あいつら」を描くようなドラマは陳腐に過ぎるという素朴な感想もありえるだろう。僕は自分に関係ない人たちが、「うちら」の相互扶助でささやかでユートピアじみた世界をつくって守っていく、ワンクールだけ持続するユートピアをこそ求めているのだろうと思うし、じっさい好きになる連続ドラマはぜんぶそういうものだ。毎週顔を見たくなるというのがドラマの醍醐味だ。好きな人たちのつらそうな顔なんか見たくないし、「あいつら」への当てつけのように無理して明るく振る舞う様子なんかもっと見たくない。
寝る前は奥さんとゲームをしつつ、トロフィー回収の段になったら奥さんに任せて日記を書く。日付が変わる前には寝る体制をとりたく、なおかつその日のうちに日記を書こうと思うとなかなか時間のやりくりが大変である。毎日毎日よくやるよ。なんかいつもより長めだし。