早起きして水道橋に向かう道中で『会社員の哲学』を読み返す。一日か二日ぶんの通勤時間でさらっと読み終えることができるものにはなっているのではないかと改めて確認する。機械書房に到着するやいなや取り置いてもらっていた『吉岡実を読め!』と『カフカの日記』を買う。今日は満員の八名もいらっしゃって、本人がいるとやりづらいかもという心配を晴らすように忌憚のない意見が活発に発話されてうれしい時間だった。自著の読書会というのは、読者にある効果を及ぼすことを意図して並べた文字列が、たくらみ通りの結果をもたらしたか、あるいはどの程度失敗したか、その失敗は面白いものだったかどうかが確認できて、面白い。おおむね批判的な観点を提示される時、しめしめと感じ、肯定的な意見に、そうなっちゃうかあ、と思った。『会社員の哲学』はナメられてなんぼというか、それぞれの立場からの文字を自分で書いてみて欲しいというのがいちばんの望みであるから、それはちがう!と違和感をもってもらうのがいちばんいい。あるいは、まだ具体的な労働が縁遠い人たちには、なんとなしに気が楽になるような本にもなっていればよかった。おおむねうまくいっていそうな感触も得つつ、筋道立った体系を構築するような書き方に関してはまったくの無能で、そのくせ実生活レベルでは「理屈っぽい」と言われがちな性分でもあるので、なにか論理めいたものを書くには(悪口としての意味を強くもたせたものとしての)散文的にならざるをえない。そのことを強く自覚する場でもあった。この本を小説として読んだという方がいて、それは意外でありつつうれしい観点だった。個人としては確信めいたある論理が、当人の言語能力の特性や知識の乏しさにより学術的な意味での論理とはいえない形でしか表せないようなとき、それでもある一定の説得力をもった文字列を制作しようと試みた結果できあがる胡乱なもの。それが小説や詩歌というものなのではないか。文芸時評を月々書いていきながら、だんだんとそのような考えが確信に近づいてきていた。
脱線するが、小説というのはバカの味方なんだというような話を、いつか酔っ払った時に聞いた気がするが、もの考えるバカの営為を真に受けて、膨大な読書量と語彙を駆使してそこに体系や構造を打ち立てようとする批評は、気持ちいいくらい大バカではないか。知力を総動員してわざわざバカを目指すのだから、好きだなあ。
さて、思った以上にいい感じに読者への効果が確認できたので気分が良くなって読書会の後半はしゃあしゃあと饒舌になってしまった。制作のプロセスから形式への意識など、調子よく語りながら、僕はやはり論説よりも小説めいたことをやっているというか、ある形式に則ったうえですんなりそこに収まらない変なものを、それでも形式の力によってかろうじて作品として提示しうる形を保っている、そのような変なゴミをつくるのが楽しいのだと思い込み始めていた。
会の後は新宿に出て奥さんと合流。OZONE で壁紙のサンプルなどを吟味する。照明によってずいぶん印象が変わるから、見れば見るほどよくわからなくなる。雨が降り出して眠たくなってきた。ロイヤルホストで甘いものを食べて休憩。読書会の話を聞いてもらう。このまま新宿の無印に行くかどうしようかと検討し、けっきょく上野に移動して掛け布団カバーを買う。寝具は西川に限る、と信じ込んでいる。そのような保守性が生活にはつきまとう。そこに根拠はあるようでないようで、でもやっぱりあるような気もする。帰宅してからさっそくつけたのだが、手触りはかなりよさそうだった。寝るのが楽しみである。吉池の鮮魚を眺めて遊び、ユザワヤで布を買った。夜はそのまま御徒町で友人に会って、結婚の書類に保証人としてサインする。おいしい中華をご馳走になる。きょうは一日にこにこしていて、なかなかによかった。